どんなに柚乃が明るく振舞っても、伊吹の表情が晴れることはなかった。あれを境に、白露庵の内側は沈みがちになった。
 三度目の溜息を深く吐いて、近くにあったゴミ箱に雑誌を棄てた。
 帰ろう。あと二日は、柚乃の帰る場所だ。
 鞄を持ち直し、公園の出口に向かう。陽は暮れかかっていて、木陰にはすでに夜の色が翳り始めていた。口笛を失敗したような音を立てて風が通り抜け、その唐突さに目を細める。
「ゆーっのちゃん!」
 進行方向から暢気な声がして、姿を見つけるよりも早く、真木瀬だと判った。
「心配だから、迎えに来ちゃった」
「心配、ですか」
 携帯電話の時計を確認するも、心配されるほど遅い時刻にはなっていない。
「泣いてた?」真木瀬は至近距離で覗き込む。柚乃が仰け反ったのには頓着せずに、ぴっと立てた人指し指を目元に向けた。「泣き跡あるよ」
 自覚無いままに泣いていたのかと、慌てて目尻を拭う。濡れた感触は皆無で、かま掛けだと判った時には遅かった。
 隆人が自分の為に言ってくれたのだと知っていても、本心は言葉通りだったのではないかと、疑念が払拭できなかった。疑ってしまうことにも、その中身にも、沈んでいたのは事実だ。
「やっぱり、泣いてたんだ。どした」
 柚乃は一歩後退して、首を振った。
「泣いて、ないです。それよりおかえりなさい。今日ですよね。帰ってきたのって」
「荷物担いだまま直行したら柚乃ちゃんいないんだもんなー。焦っちゃったよ」
「焦る?」
「いなくならないって約束したのにさ」
 わざとらしく子供がするようにむくれ顔を作る真木瀬に思わず噴き出す。
「いなくなってなかったですよ?」
 今はまだ、とは続けられなかった。
「柚乃ちゃん、帰らないの?」
「あ、はい。戻ります」
 白露庵はもうすぐ、『帰る』場所ではなくなる。咄嗟に「戻る」と言って、それは無意識のうちに自分を慣らしていこうとしているのだろうかと、ふと考えた。
「じゃあ、帰ろう」
「まるで自分の家に帰る口振りですね」
「本当は俺も白露庵に住みたいんだ」
 冗談とも本気とも言える顔つきで真木瀬は笑った。毎日喧嘩の声が飛び交って賑やかそうですね、と冗談を返す。
「ゆん!」
 足並み揃えて歩き始めた時、背後から唐突に呼ばれた。声にも、呼び方にも、聞き覚えがある。先日、十二年ぶりに逢ったばかりの相手。だから、振り返れない。
 びくり、と肩を震わせて以降、身を堅くしている柚乃から背後へと顔を向けた真木瀬は、相手を確認する。真木瀬にとっての見知らぬ男が、一直線にこちらを目指して近づいてくる。柚乃だけを目標にして、走ってくる。
「ゆん、待ってくれ」
 走り寄ってくる足音が、距離を置いて停止する。柚乃はぎゅっと拳を握った。
 揺らがないと凍結していた筈の心は、こんなにも脆く動揺している。あっけないものだと、自嘲した。白露庵から払い出すことが出来たのは、奇跡だったのかもしれない。
「ゆ、」
「呼ばないで下さいっ」
 振り返れぬまま、凛と背筋を伸ばし、視界に捉えていない相手に向かって吐き出した。
「その呼び方は、しないで下さい!」
 搾り出す声音に、厳しい言葉に、真木瀬は瞠目している。柚乃の中の、押さえ込んでいたものが決壊した音が内側に響く。
「柚乃ちゃん?」
 真木瀬の呼びかけに反応できず、ただ耐えるようにして柚乃は唇を引き結んだ。
「あんた、誰?」
 柚乃を背後に庇って真木瀬は朔に対峙した。早鐘を撃つ鼓動が痛いばかりで、柚乃はそれを鎮められずにいる。逃げ出したい衝動を必死に飲み下した。
 居場所がばれてしまった以上、向かい合わなければいけないことは、理解していた。朔が白露庵を訪れた日から。隆人が、兄の元へ行けと言った瞬間から。
 その勇気が、出せずにいた。
「兄、なんです。俺は、柚乃の…兄です」
 柚乃と真木瀬の位置関係に勢いを削がれた朔は、急速に落ち着きを取り戻そうとしているようだった。
「ああ。あんたが」
 真木瀬にしてはぞんざいな言い方だった。俺は営業マンだからさ、相手がどんなでもまずは物腰柔らかく対応する自信は完璧にある。と普段豪語していたのはどこへいったのだ、と問い掛けたくなるほどの、粗雑な物言いだ。
「…は、いません」
 背中にいた筈の柚乃は静かに移動し、真木瀬の真横に並んだ。真木瀬が間を取り成そうと逡巡している内に断言を放つ。
「あたしに兄はいません。先日もお話した筈です!もう来ないで下さいっ。あたしと貴方は、無関係なのです!」
 一気に吐き出す柚乃に呼応するように、朔の顔が沈んでいく。正面に見つめて尚、柚乃は言葉を止めなかった。そうすることで自身にも言い聞かせるが如く。
 傷ついているのは、言を発した本人なのかぶつけられた方なのか。あるいは両方か。
「柚乃ちゃん、行こう」
 いずれにせよ、真木瀬にはこの場から柚乃を救う権利がある。朔を援護する義理はない。結論を出すが早いか、白露庵への帰路を促す。
「……ゆん!」
「血の繋がりなんて、くそ喰らえ、だ」
 真木瀬は朔をひと睨みし、その場に縫いつけ、隆人と同じ台詞を吐き棄てる。公園を出てしばらくしても、二人を追いかけてくる音は聞こえてこなかった。
「俺がいない間、どうなってたんだ」
 秘書の申し出以降、何があった、と言い直す。
「なに、も…」小さく首を振る。
 引き取りたいと申し出があって恬淡に断って、音沙汰はなかった。
「なにも、なかったです」
 兄の傷ついた表情が、こびりついていた。
 何故、と思う。
 棄てた相手を見つけたからと言って引き取りたいだなんて、身勝手な要求をしている人間が、何故傷つくの?掻き廻して、何がしたいというの?
「さっきのこと、隆人さん達には言わないで下さい。絶対に、言わないで下さい。お願いします」
 受諾も拒否もないうちから、柚乃は深々と頭を垂れた。


[短編掲載中]