余計なことをしてしまったかと、目の前の表情を見た瞬間は、思った。でもそれは本当に瞬間だけで、自分の行動は間違っていないのだと、すぐさま思い直した。
 唖津は今、白露庵にいた。
 柚乃に時間を置いてほしいと言われてから足が遠のいていたけれど、どうしても二人に聞きたいことができてしまった。
 唖津が店の扉をくぐったのと入れ違いで、白露庵の常連の真木瀬が「煙草を買いに行く」と言って出て行った。彼の指定席となっているカウンターには、出張帰りそのまま寄ったという証に、キャリーケースが床に置かれていた。
 夕刻のこの時間は、夜営業までの準備帯で客はいない。閑散とした中、隆人と伊吹と亜津が、翳り出した空気に包まれていた。
「これ、柚乃ちゃんが棄てたやつです」
 公園のゴミ箱に、溜息と一緒に棄てたものを確認するというのはかなり気が引けた。が、柚乃の表情を見てしまったからには構ってなどいられなかった。そして、棄てられたものを確認して、白露庵を訪れないわけにはいかなくなった。
 カウンターに乗せられた求人雑誌。隆人も伊吹も、同時に眉根を寄せた。
「これを、柚乃が?」
 やはり知らなかったのだと、確信する。
 白露庵に兄である朔がきて、朔の捜し人が柚乃であると判明して、時間を置きたいと言われて。だからといって放っておける筈はなく、気に掛けてはいた。偶然、公園で柚乃を見掛けた時には声を掛けようかと迷ったが、結局やめた。躊躇っているうちに、沈んだ表情のまま柚乃は公園の出口へ向かって行ってしまったのだ。
「仕事を捜しているのは、何故ですか」
 口調は尖ったものになってしまう。おそらく柚乃は、誰にも相談せずに心を決めたのだろう。
「俺が、聞きてぇよ」隆人の語調は弱々しい。
「ねぇ、これ…」
 信じられない、といった風に、雑誌をめくっていた伊吹は隆人を窺い見た。開かれたページを三人で確認し、喉を詰まらせる。
「…寮完備、って…。汐見家に行くんじゃなかったのかよ」
 よもや信じていたわけではないだろうが、隆人の願いとして描いていたものは、柚乃の選択肢には無かったということだ。
 隆人にぶつけられた疑問に、唖津は首を振るしかなかった。
「初めからこのつもりだったのね。私達に心配かけないように、嘘を吐いた」
「ばかやろうが。なんの為に…っ!」
「隆人。柚乃ちゃん知ってたのよ、私達の嘘」
 隆人は僅かに目を見開き、俯いて髪をくしゃりと握りつけた。ばかやろう、と呟く。
 下手をすれば、柚乃はこのまま消えてしまうかもしれない。三人の中に同時に、不安が広がった。
「真木瀬くん、柚乃ちゃんを見つけてくれればいいけど」
 半ば祈るような伊吹の言葉に呼応したように、突然店の電話が鳴った。緩慢な動きで受話器を持ち上げる隆人のトーンは、どの時よりも低かった。無愛想に店名を告げ、次の瞬間には声高になった。
「一緒なんだなっ!?今どこにいんだよっ?」
 受話器の向こうで二言三言話しているのが聞こえる。隆人の発する内容で、粗方の把握は出来た。通話を切った時には、伊吹と唖津も電話の傍に集まっていた。
「柚乃ちゃんいた?」
 隆人の袖口を掴む伊吹は、答えを返さないと解放しないという気迫さえあった。
「真木瀬と一緒だ。寄り道したら、ちゃんと連れ帰ってくるって」
「寄り道?」
 すぐに連れ帰らない真木瀬に苛立っているように伊吹は短く問う。
「柚乃がいた施設だ」
 伊吹に困惑の色が滲んだ。
「施設に戻るってことですか」
 唖津は思ったことを吟味することなく、そのまま口にしていた。ほんの少し考えれば無いことだと判ることなのに。
「柚乃が行きたいっていうから、付き添ってくるって真木瀬は言ってた。必ず帰るから、待っててほしいという伝言だ。――…唖津」
「はい?」
 今だ焦燥に似た感情を浮かび上がらせている唖津は、隆人の静かな呼び掛けにたじろいだ。
「柚乃はな、決別宣言をして、施設を出たそうだ」
 伊吹は、話し出した隆人を止めようとはしなかった。
「ここに住むようになってから、柚乃は施設に顔を出していない。行けない訳を俺達は聞いてないし、話してくれるまで問うつもりもなかった。ただ、あの伊達眼鏡は、誰かを避ける為なのだと、気づいてはいた」
「泣きホクロを隠す為、ですよね。確かに素顔を晒していなければ効果はあるかもしれませんけど、そもそも何故です?兄さんは、柚乃ちゃんが隠れなければいけないような酷い人間ではありません」



◇◇◇



 ずっと怖くて、近寄れなかった。
 想い出が、巨大な波のように押し寄せて、自分を呑み込んでしまうかもしれないと怯えていた。
 柚乃はそっと、門に掲げられた園の名前を指でなぞった。耳の奥で、当時の、園内に溢れていた喧騒が聞こえた気がした。ゆっくりと、敷地内へと歩み入る。正面に立つ建物は、ここを出た時と何ら変わらない顔をしていた。手前に広がる芝生は、きちんと手入れされ、緑で溢れている。
 ぎこちなく、右へと視線を動かす。そこに広がる向日葵畑。その手前には、カスミ草の畑が、変わらずあった。
 なにも、変わってない。
 畏れていた波も、無かった。ただただ、あたたかい感触だけが内側に湧き上がるばかり。
 誘われるように、無意識のうちに、花畑の前にしゃがみ込んでいた。白い小さな花達が、視界いっぱいを埋め尽くす。一輪に触れる。園にきてしばらく経った時のことが思い出された。
 施設にきたばかりの頃、事故で両親を失ったショックから、柚乃は兄以外と言葉を交わせなかった。兄の後をくっついて廻り、兄の学校が終わるのを、近くの河原で待つ日々だった。
 河原で一人、なかなか帰ってこない兄を思い、泣きそうになっていた時、園長が迎えにきてくれた。心細くて、寂しくて、繋いだ手が兄と同じぬくもりだったことを覚えてる。
「力強く咲いているでしょう?」
「園長先生…」
 真木瀬の隣に、にこやかに笑う園長がいた。変わらない、微笑み。
「あのっ、ご無沙汰してますっ」
 ばっと立ち上がり腰から折って深々とお辞儀する。園長は全く気にした様子も無く、笑みを濃くした。
「元気にしていたの?変わりはない?」
「はい…」
「今年も綺麗に咲いてくれて良かったわ」
 柚乃に並ぶとカスミ草を眺める。
「ずっと、園長先生が…?」
「ええ。花の手入れは楽しいもの。皆さん褒めてくれるのよ?カスミ草の花畑なんて、珍しいからかしらね」
 お茶目に話す口振りは、以前と変わらない。敷地に踏み入って、園長の顔を見て、記憶が緩やかに、けれど鮮明に、柚乃の中に戻ってきた。
 痛くなかった。何を畏れていたのかと、自嘲したくなるほどに、優しい感触が柚乃を包み込む。
「お母様が好きだった花ですもの。柚乃がここに来た時に怒られないようにしなくっちゃ」冗談めかす。
「怒るだなんて…」
 たくさん救ってもらった。たくさん護ってもらった。たくさんのものをもらった。それこそ、目に見えない大切なものを。
 母が好きな花だと話したのは、河原から帰る道すがらだったろうか。
 翌日、早速朝から園長は土を掘り起こしていた。カスミ草の畑を作りましょうと、誰よりもはりきって。
 園にはもともと木やら花壇やら、とにかく敷地内は自然の植物で溢れていた。その日から、向日葵畑の傍らにカスミ草畑も加わった。
「ありがとうございます…」
「いーえ?どういたしまして」園長は軽やかにとぼけてみせる。「中に入りましょうか」
「貴方は、柚乃に付き添って下さったのですね?」
 園長は真木瀬に向き合うと、こちらへどうぞ、と入口へ促した。
「いえ。ここで待たせてもらっていいですか。二人でゆっくり話された方がいいでしょう」
 白露庵にきては騒がしくしている真木瀬とは掛け離れた口調だった。まるで別人だ。
「でも、真木瀬さん」
「いーって。気にせずゆっくりしてきな。久々の再会なんだろ?」
 背中を押され、ぺこと頭を下げ、園長の後に続いた。


[短編掲載中]