廊下の軋む箇所も、壁の汚れも、匂いも、建屋内の様子も、変わっていない。懐かしい。
 柚乃の回顧を待つかのように、横を歩く園長の足取りもゆっくりとしていた。園長室に通され、古びたソファにかける。これも変わっていない。園長室と掲げてはいるが、出入自由な場所だった。ここで遊ぶ子もいれば、居眠りしてしまう子もいる。柚乃もそんな一人だった。
 お茶を淹れます、という柚乃の申し出を断り、園長が淹れてくれた紅茶がほんわかと湯気を立てる。向かい合って座る園長は、変わらない穏やかな雰囲気を纏っていた。
「ここを出る時、無茶なお願いをしてすみませんでした」
 ――誰に尋ねられても、自分は勝手にいなくなったのだと、言ってもらえませんか。
「驚いたわ」
「…すみません」
 純粋に園長の言葉も信じられなくなっていた。朔は迎えにくるからと、何度も言ってくれた。沁み込ませるように。その度に、信じているふりをした。自分の為を想っての虚言だと知ってからは。
 カップを口につけ、一口飲んだ。熱い液体が喉を滑り落ちていく。
「いい香りですね。園長先生が好きだったお茶ですよね」
 何度かこの部屋で、このソファに座り、飲ませてもらった。
「好みって、そうそう変わらないものよ?」懐かしむように微笑み、真っ直ぐに柚乃を見る。「白露庵でいただける紅茶ほど上手に淹れられないのが残念ね」
 柚乃は僅かに目を見開き、穏やかさを纏う園長の顔をじっと見つめ返した。
「いらしたことが、あるのですか?」
 嘉瀬夫婦から聞いたことがない。園長であれば、隠すことなど無い筈なのに。
 いつでも来て下さい、と言いかけて、飲み込んだ。自分はいなくなる。
「今一緒に暮らしている方々には、ここのことは言っていないのね?」
「ここが、嫌いなわけではないのです」
 ただ、言い出せなかった。隠したかったのは、兄がいたことだ。兄が、自分を棄てた事実だ。二人には、知られたくなかった。ここを、訪れてほしくなかった。
「そんな心配はしてないわ、柚乃」園長は笑う。「お二人がこちらへ、出向いてくれたことも、あるの」
「え?」
 住み出した当初は施設のことを何度か訊かれた。頑なに、答えを拒んだのは柚乃だ。施設の名前も住所も、自分の口から洩らした記憶はない。
「向日葵畑とカスミ草畑。そのヒントだけを頼りに、捜しだしたそうよ」
 記憶の引き出しが、また開かれる。何気ない日常会話でヒントを見つけ、どれだけの労力を注ぎ込んで捜したのかと想像すると、胸がずしりと痛んだ。二人がどれだけ大切にしようとしてくれているか、改めて知らされた気分だった。
「挨拶が遅れてすみません、とおっしゃって」
「あたしが黙っていたのです」
「そうね」判っていたわ、と片目をつぶる。「お互いさまよ?お二人も、来たことは柚乃には黙っててほしいと言っていたもの」
 園長の声は軽やかなままだった。
「あれは…柚乃が住み始めて半年くらい経った頃だったかしら」
 記憶を辿る仕草で、視線を宙に泳がせる。ついと再び、柚乃に向き合った。
「『あの子は子供だけど、なにも決められない子供じゃない』」
 誰かの口調を真似ていた。突然何を、とは訊けなかった。挟むべき言が見つからず、じっと待つ。
「『一人の人間として向き合っていたいから、あの子を信じていたいから、話してくれるまで待つつもりです。だから詳細は聞きません。ただ、我々のできる限りで、あの子に安心できる場所を作ってあげたいと思っています』」
 泣きそうになった。隆人の声が、重なって聞こえた。それは幻聴に他ならないのだけれど。
 今、自分が座っているこのソファに座り、こうして園長と向かい合い、言ったのだろうか。宣言ともとれる言葉を。
「素敵な人達ね」
 俯いてしまった柚乃に優しく問う。はい、と音量は小さくなってしまったけれど、きっぱりと返した。
「それで、なにかお願いでもあったの?」
 出し抜けな問い掛けにはっとする。ぱっと顔を上げた先にいた園長は、やはり穏やかに笑んでいた。
「伊達に、貴女の母親のつもりでいたわけじゃないわ」
 見通しているのだと、判った。隠すことでもないし、むしろふってくれたことに感謝する。切り出すタイミングを、考えていなかった。きゅ、と唇を結び、静かに息を吐き出した。
「嘉瀬家を出ることになりました。自分はあそこにいてはいけない人間です。けれど、あたしは弱くて…」
 離れたくない気持ちが、この街に繋ぎとめた。その甘えが、周囲を振り廻す形になってしまった。
「しばらく、ここに置いてもらえませんか。数日…いえ、一日でもいいです。すぐに出て行きます。迷惑を掛けないようにしますから」
 腰から深々と頭を下げた。
「また、いなくなってしまうの?」
「今度こそ、街を出ようと考えてます。自分を知る人のいない所へ、行きます」
「何故そうまでするの。朔と、なにがあったの?何故…」
 施設を出る時、お願いだけはしたくせに、明確な理由は述べなかった。卑怯だと、判ってはいた。園長には総てを話すべきだと掠めるくせに、知らんふりをした。怖かったのだ。言ってしまえば、途端に心が折れてしまいそうで。
「信じていたんです。周りから散々言われもしましたし、同意してしまいそうにもなりました。でも、信じていたんです、兄の言葉を。別れ間際の、約束を信じていたんです。…あの夜までは」
 時を経て、ようやと園長に話すことができた。こんな事態に陥らなければ、一生話すことは無かった。せり上がる感情を押し込めながらでは拙くしか話せなかったけれど、園長はじっと耳を傾けてくれた。口を噤んで、室内には秒針の進む音だけが響いた。知らず躯の前で握っていた拳が力を込める。やがて、園長はゆっくりと息を吐き、紅茶のおかわりを注いでくれた。
「柚乃」
「は、はいっ…」
 どんな表情でいるのかと窺い見た顔は、責めるでも憤慨するでもないものだった。ただほんの少し、哀しそうだった。
「ごめんなさいね」
「え?」柚乃はたじろいだ。「謝るのはあたしの方でっ、」
「余計なことは考えず、真っ先に貴女に逢いに行くべきでした」
「園長先生?」
「柚乃、貴女は朔に棄てられたのではないのですよ」
 この期に及んで、柚乃を気遣い、嘘を吐くとは考えにくかった。
「朔は何度も…それこそ小まめに、ここを訪ねてきていたの。ずっと貴女を捜していたわ」
 白露庵に辿り着けなかったのは、園長が柚乃との約束を護っていたからだ。ずっと板挟みになっていたということだ。
「棄てたんじゃないの」園長は繰り返す。
「では、あれはなんだったのですか。あたし…っ」
 手が震えた。冷たい廊下を、翳った横顔を、断ち切る言葉を、思い出す。信じていた者に「逢わない」と断言された恐怖を、思い出す。
「貴女は前後を聞いていなかったのではないですか」


[短編掲載中]