頭の中が真っ白になった。瞬間の記憶は本当に鮮明で、傷を穿って残されている。記憶違いはない筈だった。
「前後…ですか…?」
 自分の声が、上滑りしていた。反芻するも、意味合いすら捉えられなくなっていた。
「朔を引き取ることは、奥様が反対されてたそうなの。事情が事情なのだから、当然の心理とも言えるのだけれど」
「事情…」
「朔と柚乃は半分しか血の繋がりがないわよね」
「はい。父が違いますので」
 これは、小さい頃から、それこそ言葉を覚え出した頃から言われ続けていたことだった。柚乃が産まれた時、話す時機を悩んだと聞いている。その頃には朔は知っていた事実で、柚乃にもそうすべきだと両親は判断した。いずれ話すことになるのであれば、変えられない事実ならば、下手に隠すことはしない方がいいと。
 半分しか血の繋がりがなくても、家族の繋がりは他と比べて遜色などなかった。むしろ、強かったといえる。
「朔を引き取った汐見さんはね、朔の本当のお父様なの」知っているわよね、と目が伺う。「貴女方のお母様の事故を知って、朔がこの施設にきたことを知った」
「それで、引き取りにきたんですよね」
「朔は、細かいことは教えてくれなかったけれど、おそらく、なにか条件めいたことを言われたのかもしれないわ」
「向こうの、奥様に…?」
 つまり、唖津の母親に、だ。園長は苦い顔で頷いた。
「よく聞いて、柚乃」
「…はい」
 語調は、園長が子供達を諭す時のものになっていた。自然背筋が伸びる。
「朔は、貴女を棄ててなどいません」
「…っ」
 三度繰り返されると、躯の中心が縮まる思いだった。
「『今すぐには無理ですけど、いつか絶対、迎えにきます。それまでは…柚乃とは逢いません。だから、柚乃を、お願いします。必ず、来ますから』」
 真っ直ぐに柚乃を見据える視線。園長に言明した時の朔が、今の園長と重なる。
「朔はね、貴女とは逢わないようにしていたけれど、貴女の様子を見に足を運んでいたのよ。柚乃に見つからないようにして、見守り続けてきたの」
 前とか、後とか、なかった。聞こえてしまった断片だけで、足元から揺らいでしまった信が、その場から柚乃を引き剥がした。誤解を招いた。

 ――総ては、柚乃の、早とちりだった。

 は、と息が漏れた。実際には、笑ってしまったのかもしれない。己の愚拙さに。内側に蠢き続けた浅薄を、罵った。
 今の自分と同じ年齢だった兄が、その状況に置かれた当時、何を思ったのだろう。自分だったらどうしただろうかと想像してみる。同じように、行動することができただろうか。
 逃げるようにして施設を去った者を、捜し続けることができただろうか。
「あた…あたし、は…」
 両手で顔を覆った所為で、ひどくくぐもった声となった。濁流となって込み上げる感情を、どうしていいか判らない。眩暈がする。
「…の。柚乃っ」
 肩を掴まれ、顔から掌を離した。傍に寄り、しゃがみ込んだ園長の顔が、間近にあった。
「あ…たし…どうしたら」
 呟きながらも、どうにもできるわけがないと断言する内の声が聞こえた。手遅れだと、嘲っている。ずいぶん酷いことを言った。平然を作り、偽りで表面を覆い、冷徹に吐き棄てた。確かにいた存在を、自分勝手に抹消して、相手に押し付けた。自分を楽にしてやる為だけに。
 謝罪すら、おこがましい。
「柚乃」
 静かに呼びかけ、宙にあった柚乃の手を膝の上に置くと、園長は自身の手を重ねた。
「朔の望みを、言葉通りにとればいいの。遅すぎることなんて、ないの。謝罪なんて、ほしがってないわ」
 ふる、と首を振る。本当に、そうだろうか。許されることだろうか。想像するまでもなく、結論は明白だ。そんなの、無理だ。
「柚乃。信じなさい。貴女のお兄さんです。信じられるでしょう」園長の語調は、どこまでも穏やかだった。「きちんと話をしてみなさい。正面から、向き合うの」
 後悔するのはそれからでも遅くないでしょう?――園長の、口癖が続いた気がした。
 諦める人間にはなってほしくないと、言った。後悔は、やるべきことをやった者が使っていい言葉だと。
「いいわね」
「……はい」
 怖いけれど、今度こそ真実になってしまうかもしれないけれど。
 ノックがして、身が竦んだ。二人揃って戸口を見遣る。木製の扉の向こう側は見えないというのに、凝視していた。再び、扉を叩く軽やかな音がする。園長が応じ、遠慮がちに開かれた。
 隆人と伊吹が、いた。
 二人は園長に向かって会釈をし、凛と背筋を伸ばした。隆人は緩やかに微笑む。
「芳越柚乃の里親になるには、どのようにしたらいいでしょうか」



◇◇◇



 唖津くん、と呼び掛けるのに相当の勇気がいった。振り絞った声は、若干震えていたかもしれない。
 柚乃の方に視線を転じる唖津もまた、ぎこちない。
「柚乃ちゃん…」
 コーヒー牛乳を唖津に差し出した。
「これのボタン押したら」と、自分が持っていたイチゴミルクを持ち上げ、続ける。「それが出てきまして」唖津に渡したコーヒー牛乳を指す。
 緊張した面持ちの柚乃は機械油の切れたロボットみたいだった。
 唖津は相好を崩す。
「文句、言わなきゃ駄目だな」
「…ですね」
 判り易いくらいほっとした表情に崩れたのが自分でも判った。
「解禁?」
 しばらく放っておいて、という件だ。
「はい。ごめんなさい、でした」
「日本語変になってるよ」唖津は笑う。「けど良かった。また話せるようになれて、嬉しい」
「ありがとう…ございます。あたしも、嬉しいです」
「でもって、初めて名前で呼んでくれた。それも嬉しい」
 直球そのものの言葉に頬で熱が弾けた。それを茶化すでもなく、どちらかと言えば一緒になって唖津は照れ入っている。
「俺が知ってること、話してもいい?」
 しばらく互いに黙ってしまった後、唐突に唖津が口を開いて、そのトーンがさきほどとは違っていて、身構える。却下する理由などなく、頷いて先を促した。
「父さんは、昔の恋人が事故で亡くなったことを知って、その時に初めて、自分と血の繋がりがある子供がいたことを、知ったんだ」


[短編掲載中]