淡々と、客観的な物言いで唖津は言う。それまでにあったであろう葛藤を一掃したかのように、清々しい。そこに辿り着くまでの経緯を、柚乃には想像もつけられなかった。
「父さんが学生の時さ、親同士の決めた婚約者がいたんだって。でも、父さんは柚乃ちゃんのお母さんと出逢って、惹かれ合った」
「学生時代にすごく好きな人がいたっていうのは、聞いたことがあります。お父さんには内緒よ、ってお母さん、あたしだけに話してくれて。唖津くんの、お父さんのことだったんですね」
「うん。当時はさ、すごい反対されたらしいんだ。だからといって、理屈でどうこうできるものじゃない。二人で逃げようか、なんて話もしていたくらいだったんだって」
 あの父親からは想像つけらんないよ、と笑う。直後、それを引っ込め、唖津は真剣な目をした。
「だけど突然、なにも言わず、姿を消した」
「それは…」
 柚乃にも『何があったのか』が、閃くように気づいていたけれど、口にするよりも先に唖津が答えを紡いだ。
「兄さんができたから、だろうね。迷惑をかけるわけにはいかないと、思ったのかもしれない」
 その事実を伝えていたならば、間違いなく、柚乃の母親を選んでいただろう。何もかも棄てて、彼の為に用意された人生を投げ出して。学生だった二人が、反対を押し切って生きていこうとしても、辛い路となった筈だ。
 嬉しそうに、懐かしそうに語る母が一度だけ、零した言葉を柚乃は覚えていた。あまりにも悲しげで、幼心に焼きついている。
 ――怖かったの。
 あれは、大好きな人が自分の為に総てを失うのが怖いと、そういう意味だったのかもしれない。
「母さんのさ、気持ちを考えれば反対したのも判らなくはないけど。だけど、俺は単純に嬉しかったんだ。兄さんができることを、単純に喜んでた」
「……」
「兄さんはすごく努力したんだ。今でも、してる。それは家族として受け入れてほしいとかじゃなくて、いや、勿論できればって気持ちはあるのかもしれないけど、早く一人前として認めてもらう為の努力をしてるんだ」
「それが、条件だったのでしょうか…?」
 思わず、思ったことをそのまま声にしていた。はっとして見た唖津は、切なげに表情を曇らせた。
「ごめんなさいっ。あたし…」
「たぶん、正解。けど、たぶん、兄さんはそれがなくても、きっと同じことをした。父さんの会社は完全実力主義でさ、血縁とか無関係なんだよね。そこで常務取締役に就いているのは、認められてるからなんだ」
 今の自分が朔の立場だったとして、そう考えると、とても自分ではその圧に耐えられなかった。
「俺さ、兄さんが好きなんだ。…っても、恋愛の意味じゃないよ?」
 唐突に深刻な空気を解いてふざけてみせる。つられて、小さく笑ってしまった。
「判ってます」
「柚乃ちゃんさ、複雑に考えすぎ」
「え?」
「シンプルにいこうよ。兄さんはきっと、判ってる。てか、めげないと思うよ。自分の足で捜してきた時間は、伊達じゃないし」
 ね、と屈託なく笑う。覗き込まれて、見透かされてるようで、再び顔で熱が弾けた。でも、などという後ろ向きな発言が入る隙間は無いらしい。
「柚乃ちゃんはどうしたいの?――逢いたい。…だよね?」
 お見通し、だ。観念して、素直に頷く。
「俺を頼ってくれて嬉しいよ」
 全部先回りされてるみたいで、自分の単純さが露呈されたようで、益々恥ずかしくなる。
「んじゃ、早速。今日の放課後行ってみよっか、兄さんの会社。連絡しとく」
「えぇっ?」
 素っ頓狂な声が出てしまった。
 確かに逢って話をしようと決心した。近いうちで、と勝手に決めていただけに、尻込みしてしまう。
「思い立ったが吉日、だよ」
 片目をつぶる唖津に、一瞬呆気にとられるも、隆人と同じ台詞だ、と思い至り破顔する。
「えー、なんだよ柚乃ちゃん。俺変なこと言った?」
 笑うとこじゃないだろー、と首を捻っている。なんでもないです、とお礼を言いながらも笑う。唖津の使い方が、正解だ。そう思うと更に可笑しく、更に笑ってしまった。






 そそり立つ崖を見上げている。谷底にいる自分には登ることも叶わない。まるで自分を阻む巨大な要塞が立ちはだかっているかのよう。臆病風が吹き荒び、足が竦んでしまう。
 唖津に連れられ、ビルの入口前に設けられた広場に立っていた。
 整然と並ぶ窓ガラスが照り映え、鏡のように蒼穹を写し出している。下から見上げているにも関わらず、その高さに眩暈がした。
 のこのことやってきた自分と、向き合ってくれるのだろうか。不安に襲われ、益々気後れした。
「父さんは海外出張だからいないよ」
「え?あ、そうですか…」
 そこまで思考は到達していなかった。鉢合わせる可能性もあったんだと、気づかされる。兄と血の繋がった父親。母と恋人だった人。小さい時は、柚乃から兄を奪っていった人だった。記憶は遠くて、顔も思い出せない。
「あの…やっぱり別の日に、しませんか。繋がらなかったんですよね」
 放課後までに何度か朔に電話をかけたものの総て留守電だったらしい。だったらもう直接行っちゃおう、と強引に連れられて、こうして立っている。
 唖津は電話を掛けていた。もう片方の手で人差し指を唇にあて、柚乃に沈黙を依頼する。ピーと音が漏れ出て、留守電への切替えと判る。
「兄さん?何回もごめん。これ聞いたら連絡くれよな」
 通話終了ボタンを押した直後、何かを見つけた顔つきになる。辞退申し出を聞き入れる隙もない。
「柚乃ちゃん、ここで待ってて。受付で聞いてくる」
 言うが早いか、唖津は小走りで行ってしまった。伝言を残したのだから待っていればいいのに、と思うも、総ては自分の為に動いてくれているのだから言えるわけはなく。
 ビルに出入する人の邪魔にならぬよう、端へと移動する。角度を変え改めて仰ぎ見ても、やっぱり圧倒された。
 小さく息を吐いた。怖くて逃げたい気持ちを、懸命に叱咤する。人を傷つけた代償だから。甘んじて受けるべきなのだ。
「あっれぇ?やっぱ知り合いだったんじゃねぇ?」
 肩を掴まれ、全身が硬直する。ぽんと浮かんだ人物を、こんなところにいるわけがないと払拭する。が、それは柚乃の願望に他ならなくて。
「君さぁ、嘘はいけないよな」
 にじり寄ってくる相手は四人。内二人は、以前校門で「汐見唖津を知っているか」と聞き廻っていた者達だ。柚乃の表情を見て、非友好的な笑みを浮かべる。
「俺達のこと、覚えてるみたいだな」
 背筋がざわついた。伸びてきて掴もうとする手に、総毛立つ。喉がつっかえて声は出ない。足は意思通りに動いてくれそうで、隙間をすり抜けようと動き、呆気なく阻まれる。囲まれ、すかさず腕を掴まれ、身動きがとれなくなる。男達は世間話を装う態で、行き交う人達から柚乃の姿はすっぽり隠れてしまっているらしい。不穏な空気を嗅ぎ取る者はいなかった。
「あれ、こいつ」
 押さえ込んでいない一人が柚乃をまじまじと観察した。ポケットから紙を取り出して見比べる。男は卑しく口端を持ち上げた。
「やっぱり。汐見の…いや、芳越朔の妹だ」


[短編掲載中]