柚乃を囲む小さな輪がざわついた。柚乃が蒼白になるのを見て、確信を得た面構えに変貌する。
「たなぼただな。あんたにはちょっと付き合ってもらおうか」
 男達が浮かべる笑みが不快だった。柚乃が睨み上げてるつもりでも、怯ませるどころか嘲弄を誘うだけだった。
「世の中不公平だと思わねーか。裕福な奴がいる一方で、俺らみたいに底辺歩いてる奴もいる。だからな、有る所から無い所へ廻して、均すのが公平ってわけだ。慈善事業の提案だな」
 人を見た目で判断してはいけません。とは、園長先生の教えだけれど、自らの行いをいかにも善として語る男の顔には、判り易いくらいの悪質性が浮かんでいた。
 要約すると、この会社の上層部の人間からお金を巻き上げるつもりでいるのだ。おそらくは社長、もしくは朔から。握っている切り札は、朔の出生。
 汐見の父親が公にしているかどうかは柚乃の知るところではないけれど、この男達は弱みと踏んでいる。揺さ振りをかけ、搾取を目論んでいる。だが、巧くいかない。大方、一蹴でもされ、代わりに唖津を突いてみた、なんて陳腐な実情なのかもしれない。
「大人しくしてりゃ怪我はしねーよ」
 たぶんな、と付け加え、他の三人と下卑た笑い声をたてる。柚乃が会社の近くにいたことで確信を得たのか、俄然張り切りだした風にも映る。内心でげんなりしたからといって、柚乃にこの場を切り抜けられるだけの能力が無いことは重々承知していた。下手に動けず、良策も思い付かない。
 ちらちらと柚乃の方へ視線を送る傍観者も出てきた。柚乃と視線が合っても近づこうとする者はいない。気にはなるが関わりたくないと、皆一様に通り過ぎていく。
「誰も助けてなんてくれねぇよ」
 は、と鼻で笑う。正面に立つ男は取り出したナイフをちらりと掲げた。鋭利な光が反射して、柚乃は目を眇める。視界にあったのは一瞬だけで、すぐさま脇腹あたりを定位置とした。動けばいつでも刺せるのだと暗に匂わせている。
「大人しく言うことを聞け。いいな」
 小刻みに首肯する。
 人目を気にし、柚乃を連れ立って移動を開始した。逃げる隙が見つけられず、従うしかない。せめてもの抵抗の鈍重な足運びも、小突かれてしまっては継続不可となる。加減知らずの捕縛の強さに、腕が悲鳴を上げていた。
 打開の糸口を探して顔を上げ、駆けてくる唖津を見つけた。
「来ては駄目ですっ!」
 思わず声を張り上げていた。男達が柚乃の視座を捉える。唖津は止まらない。一直線に柚乃を捉え、一直線に突進してくる。
「柚乃ちゃん!」
 気づいたら、唖津に手を引かれていた。走りながら振り返る。躯を折ったり、膝をついている男達との距離があいていく。標的を逃すものかと鋭い視線が、向けられていた。

 ほぼ同刻。
 ビルの上階にある会議室から十数名の人が吐き出された。片付けに居残る数名を残し、会議室をあとにする集団の後尾について、汐見朔も続いた。出口をくぐると、集団が向かうエレベータホールとは逆方向へと進む。廊下の突き当たり、窓際に寄り、小さく溜息を吐いた。朝から外勤で立ち廻り、個人の携帯電話をチェックする暇もなかった。留守録があるのは認識していた。相手を確認する隙も見つけられず、放置したままになっている。
 首をゆっくりと廻すと、骨が鈍く鳴った。蒼穹のあまりの青さに、目が痛い。
 仕事、詰めすぎか?
 やってこなせないわけではない。少々許容オーバーかなとは思う。単に忙しくしていたかっただけだ。帰宅しても、泥のように眠れるように。
『無理しすぎだよ、兄さん』
 昨夜の唖津の声が蘇る。深夜零時すぎの帰宅だった。唖津はリビングにいて、テレビの前を陣取っていた。点いていた番組は、彼が好まない部類のもの。
 自分を慕ってくれる弟は、なかなかに鋭い。
『疲労が滲んだ面構えじゃ、折角の色男が台無しだ』
 今時色男なんて使わないだろう、と茶化すと、そうだねと言って自室に戻っていった。
 その弟からの、着信だった。履歴を見ると五回の着信と、二件の伝言が残されていた。電子音の後にメッセージが流れる。その時ふと、何気に送った視線の先に、弟の姿があった。弟に手を引かれ走る少女がいた。そのすぐ後を、四人の男が追っている。
 以前、妹の写真を持ち歩き朔の出生をネタに、強請りを掛けてきた男達の服装と系統が同じだった。反射的に、躯が動く。手にしていた資料を会議室の机に放り出した。
「悪いけどっ…それ、俺の机に置いといてくれないか!?」
 目を真ん丸に動作を止めた女性社員が、走り出した朔の背中に呼び掛けた。
「どちらへ行かれるのですかっ?」
 それに答える余裕は、朔には微塵も無かった。

 がむしゃらに走って、袋小路で追い込まれた。進路を妨害する倉庫の扉は、びくともしない。
「くそっ…!!」
 唖津は憎らしげに呻いた。ノブを両手で激しく揺さぶるも、扉は沈黙している。追い詰めたとばかりに勝ち誇る男達の動きを注意深く観察する。柚乃は震える指先で唖津の袖口を引っ張り、開かない扉に苦戦しているのを止めた。
 先ほどは虚を突けたから、四人の手の中から柚乃を奪還することが可能だった。態勢を整えた今では分が悪すぎる。
「柚乃ちゃんさ、まだ走れるよね」
 こそ、と耳打ちしてくる。疑問符をつけてはいたが、明らかに所願口調だった。嫌な予感がした。
「走れます。逃げましょう」
 ぎゅうっと掴む指に力が入る。不安から、どうしても力が入ってしまう。唖津が、こんな状況において、挑戦的に口端を持ち上げたりなどするからだ。じわりと不安が支配する。どうか、自分の思い過ごしであってほしい。そう願ったのも束の間、唖津は柚乃の不安を現実のものにした。
「俺が止めるから、柚乃ちゃんは全速力で走って」
 即座に首を横に振った。縋りつくように唖津の腕を掴む。
「そんなのっ、無茶です。一緒に…」
「逃げ口はあっちしかないんだ」顎で男達の方向を示す。「どうにか逃げて、助けを呼んできてほしい」
 混乱しているのは自分だけなのかと疑いたくなる、静かな口調だった。首を振るばかりの自分が子供じみて感じる。
「なにを相談してんのか知らねーが逃げ道はない」
 じりじりと距離を埋めてくる声に、意識を戻す。揉めてる場合ではないのは判っているけれど。
「ダメです。逃げましょう」
「いくら柚乃ちゃんのお願いでも聞けない」
 軽やかに、まるで挨拶を交わすかのような爽やかさで断言すると、するりと動き、地を蹴った。柚乃の手は宙を掴む。
「唖津くんっ!」
「柚乃ちゃん、早くっ」
「唖津!ゆんっ!」
 四人に殴りかかっていく姿に気を取られていて、男達の更に後方にまで意識はなかった。朔が、団子状の中に、加わっていた。
「ゆん!逃げろっっ」
 二対四。一人で二人を相手に、かろうじて防いでいる状態だった。せめぎ合いが保たれていられるのは時間の問題だ。
 弾かれるように足は動き出していた。泣きそうになるのを堪え、今できることをするのだと、駆け出していた。殴り合いを尻目に、脇をすり抜ける。がこん、と衝突音がして、直後、異常なほど強い引力が柚乃を絡め取った。
 朔を投げ飛ばした男が乱暴に柚乃を掴んでいた。高揚した目が恐怖を煽る。
「痛っ…!」
 後ろから髪を鷲掴みにされ引っ張られる。奇妙な浮遊感が足元にあって、次の瞬間にはお尻から地面に落ちていた。掴む手は放れるどころか、無理矢理に立たせようとする。立ち上がろうにも立ち上がれず、視界には劣勢に傾きつつある唖津が見えた。男は柚乃の二の腕を掴んで引っ張り立たせ、太い腕でがっちり捕縛する。壁に叩きつけられた朔は反撃の隙もないまま、殴られていた。低俗な目論見をするだけあって、腕っ節だけは誇れるらしい。そんな相手に、勝てる筈がなかった。
 暴力を間近で見たことのない柚乃にとっては、それだけでも竦み上がってしまうところだった。が、渦中にいて、身勝手な理由で人を痛めつける者達に、頭の芯が熱くなった。
 後先考えずに突っ走ることは、時々発動するらしい。
 かかとで男の脛を思いっ切り蹴った。加えて腕に噛み付く。男は無様な短い悲鳴をあげ、束縛の手を緩めた。隙に乗じて逃げ出し、防御に徹するほかない朔に足を振り降ろし続けている男に向かって突進した。
「お兄ちゃんっ!!」


[短編掲載中]