無我夢中で、体当たりしていた。予測していなかった油断からか、巧い具合に急所をついたか。体当たりは脇腹を直撃し、呆気なく男は地面に顔面を擦りつけた。
 背後から、ふっと陰が差す。振り返る余裕もないままに、再び引力が柚乃を掴まえる。粗暴さのない、力強さだった。悲鳴をあげかけて、ふと、ぬくもりが柚乃を包み込む。
 衝撃が、朔越しに落ちてきた。柚乃は朔の腕の中にいた。
 容赦なく仕掛けてくる男二人の攻撃から、身を呈して柚乃を護っていた。自ら壁となって。直接でなくとも、衝撃は相当なもので。
「ゆん、動くなよ。必ず護るから。大丈夫」
 こんな、たった数個の言を伝える間にも、幾度も衝撃は落とされた。その度に、途切れ途切れとなる。それでも朔は安心させる為、繰り返した。何度も何度も、言い聞かせる。
 自分を包む腕を、柚乃は掴み返すしかできなかった。盾となり自分を護る人の意識が飛んでいってしまわないように、呼び続けるしかなかった。
「多勢に無勢、ってわけでもなさそうだけど、あんたら柄悪いから、こっちにつくなー?」
 緊迫した空気に、突如暢気な声が割り込んだ。暢気な中にも、怒気は紛れも無く孕まれていて。怯むことなく突っ込んできた人物は、見知らぬ少年だった。おそらく同年代くらいの。
 長身痩躯で、色素の薄い髪は天然のようだ。体格は屈強そうでもなく、けれど瞳は挑む強さを感じさせる光が宿っていた。彼の登場で圧倒的に好転したわけではないけれど、こちらに加勢していることは顕然だった。
 朔はまだ柚乃を抱えた格好のまま、顔だけを現場に向けて半ば放心状態だった。あれだけ痛めつけられれば、動けなくなるのも仕方がない。
「おまわりさん!こっちです、こっち!」
 また、違う声が登場する。今度は少女の声だった。可愛らしいトーンが緊迫感を滲ませて近づいてくる。唯一の逃げ道の方向から、制服姿の警察官を二名引き連れて、少女が駆けてきた。
 舌打ちが聞こえて、しばし現場は騒然となった。少年の参入から、あっという間の出来事だった。目の前で捕捉されていくさまを、茫然と見遣る。
「あー!やっぱり!」
 雑然とする場の中に、少女の呆れた声がした。何事か、と視線を送る。
 少女が、助けに入った少年の口元に手を持っていくところだった。かわすようにして、少年は上半身を仰け反らせている。小柄な少女は背伸びして精一杯腕を伸ばして何とか届く程度のところを、露骨にかわされてぶすくれる。加勢に入ったはいいが、反撃は受けていたようで。見える範囲だけでも切れて血が出ていた。
 心配しているよりも不満なのが勝っているように見えるのは気のせいだろうか。などと柚乃が思った矢先、答えは明確となった。
「だから、あたしが行くって言ったのに」
 少女はさも、自分が参戦していれば無傷だったのに、と言いたげだ。まさか、と思うが、少年がほとほと呆れ返ったので、あながち間違った解釈ではないのかもしれない。
「いんだよ。こーゆうのは男の仕事。ミウカはやんちゃしなくていーの!」
 男としては護りたいといったところか。
「言うことが逸兄に似てきたな」
 ミウカと呼ばれた少女が揶揄するように相好を崩すと、対峙する少年は面白くないといった様子になる。反論を述べようと口を開きかけていたのだが、それよりも早く、少女の意識が他へ持っていかれ、あとを追ってその場にいた全員の視線がそちらを見遣った時には、視線の集中した方向へ少女が駆け出していた。
「あ!こらっ!ミウカ!」
 叫んだ少年の声に顔だけで振り返った少女は悪戯っぽく笑った。捕縛の手を逃れた一人の背中目掛けて少女が舞う。華麗な蹴りが的中した。短く呻いて男は地に顔から落ちる。慌てて後に続いていた警察官が恐縮しつつ確保した。
 少女は一瞥をくれる少年の視線を素通りし、柚乃と朔の方へと近づいてきた。
「大丈夫ですか」
 しゃがみ込み、朔の傷を観察する。見た目ほど酷くはないと判断したのか、僅かに安堵をみせた。
「助かったよ。ありがとう」
 顔も殴られていた所為で、朔は話しずらそうに言葉を発した。と、勢いよく柚乃を見ると「ゆんはっ!?平気か!?」鬼気迫る顔つきで喰い付く。
 力一杯柚乃の肩を掴んでしまったことで咄嗟に手を離す。それでも気掛かりはちゃんと確認をすべく、捲くし立てるのは止めなかった。
「へ、平気、か!?」
 慌てたり戸惑ってみたり忙しい人だな、とは口にしないまま、柚乃はゆっくりと頷いてみせた。
「そ…うか…。よかっ、た…」
 一気に脱力し、尻餅をついて天を仰ぐ姿勢をとる。安堵した様子がありありと表われていた。
「これ、貴方のですよね」
 少年の手にあるのは、朔の財布だった。
「ああ。ありがとう」
 埃まみれになった財布を掃って、朔の手に乗せる。移動の拍子に、財布からぽろりと何かが落ちた。
 柚乃には、見覚えがあるもの。数年を経てくたびれていたけれど、見間違えようのない、記憶の欠片。
 慈しむ優しい手つきで朔はそれを拾うと、財布に仕舞い込んだ。
 触れるべきか迷い、結果口をついて出たのは礼の言だった。
「あの…。ありがとうございました」
 両膝を揃えて正座した柚乃は丁寧に頭を下げた。
 巧く、感情の整理ができなかった。園長の言葉、過去の場面、明かされた真実。思い出すほどに湧き起こる感情の渦を消化できずにいる。適切な言葉など、浮かぶ筈がない。
 朔の財布から落ちたものが、柚乃の心を揺さぶっていた。おそらくずっと、持っていたのだ。大切に、肌身離さず。――それは、柚乃が今まで抱えてきた傷の原因が、誤解だったのだと証明するもので。
 園長の言葉が真実だったという証。心が、疼く。
 柚乃に視線を移した朔の瞳には、寂寥の色が滲んでいた。
「お礼は、いい。けど、」
 悟られない為なのか、再び朔は仰ぎ見る。そのままで、隣に座る柚乃に向かって言葉を投げた。
「もう一回、呼んでくんない、かな」
 遠慮がちに、けれど懇願を込めて。
 え、と洩らし、柚乃は何のことかと逡巡する。だがその思考の時間は幾許も与えられぬまま、朔は答えを綴った。
「昔みたいに、呼んでくれただろ、さっき」
 夢中で、呼んだ。
「嬉しかった」
 再び柚乃を見る笑顔は、柚乃よりも年下に思える無邪気さだった。
 喉が詰まる。目の奥が熱くなって、必死に堪えた。零れてしまったら、何を言い出すか検討もつかない。柚乃が無言でいることを否定と取ったのか、朔は微笑んだ。本当の感情を押し込めきれていない、笑顔だった。ちくり、と胸が痛い。離れていた時間は溝を深めるのに、充分なほどあって。
 真実を知ったからといって、例え誤解があったからといって、すぐに埋められるほど浅くはなかった。
 言葉を必死に捜す。何かを言わなければと焦るばかりで、頭の中は真っ白だ。真っ白なまま、とにかく何かを言わなければと、唇を開いた時だった。
「莉哉、行こう。長居は無用だ」
 少年のような口振りで少女が宣言したかと思うと、さっと立ち上がり身を翻す。
「あのっ…」
 ちゃんと礼を述べていない。慌てて呼び止めるも駆け出していた二人はその足を止めず振り返った。
「あの人達に捕まると時間拘束されちゃうんで、今の内逃げた方がいいですよ!」
 悪戯っ子の笑みで手を振り、そのまま行ってしまった。あの人達、とは悪漢の捕縛を完了させつつある警察官を指しているのだろう。事情聴取で拘束されるとなると、家に連絡がいくことは容易に想像がつく。
「兄さん。俺達も逃げよう」
 柚乃を助け起こしている唖津が朔を急かす。場を去る姿が見つからないよう、物音を立てないように気を配りながら、そっと現場を離れた。


[短編掲載中]