夕刻の準備時間帯。白露庵には伊吹だけがいた。隆人はワインの調達で不在。胸を撫で下ろしている自分に、罪悪感を覚える。雪崩れ込んできた三人に初めこそ驚いていた伊吹も、持ち前の順応性の高さが発揮され、すぐさま対応してくれた。
 救急セットを引っ張り出してくるとテーブル席に置き、柚乃を向かいに座るよう指示する。隣のテーブル席の、唖津は自分の前に、朔は柚乃の前に座らせた。戸惑う柚乃を無視して、さっさと唖津の手当てに取り掛かる。伊吹の強引な気遣いを素直に受け、柚乃は朔に向き合った。
 殴られた口元は腫れあがってきている。痛々しい痣が色濃くなってきていた。スーツはあちこち破け、泥だらけだ。元は仕立てのよいものでも、こうなると見るも無残。
 施設では小さい子の面倒は上が見るのが暗黙の了解で、手当ては慣れたものだった。話すのも辛そうなので、柚乃は無言で朔の手をとる。ぴくん、と反応をみせたものの、朔はされるがままに手当てしていく様子を眺めていた。ひと通りの消毒を終え、血が滲む箇所に絆創膏を貼っていく。口端や額は貼ったそばから血が滲んだ。手にガーゼをあて医療用テープで固定する。添えていた手を放すのを一瞬だけ、迷った。それに気づいた朔が口を開くのを察知して、静かに放す。
「ゆん……」
 小さく呟いて、唇を引き結ぶ。数年振りにそう呼んで、拒絶されたことを思い出しているのだろうか。思い至り、胸が軋んだ。
「あの…」
 目線を合わせることができなかった。俯いて、発した声は消えそうなくらい掠れていた。
「まだ、持っていたんですね」
 何を指しているのか、朔にもすぐに判ったらしい。だが巧く言葉が見つけられず、とにかく真っ先に頷いて肯定していた。
 間を開けるのが怖いと思うのに、現実は間が空いてしまう。沈黙が長くなれば声を掛けるのが難しくなるのに、何と言えばいいのか判らなくなる。
 嬉しかった。その一言が、言えない。
「あの、眼鏡…壊れてしまったな。それで…えっと…」
 ぎこちなく放たれた朔の言葉に、思考が働くより先に目線がいった。ヒビが入り、フレームもぐにゃりと歪んでいた。
「新しいのを買いに…一緒に、行かないか」朔が言い、
「これはもう、必要なくなりました」柚乃の声が重なった。
 同時に口を開いて、揃ったことに奇妙な居心地の悪さがあり、同時に口を噤んだ。
「そっち、終わったぁー?」
 柚乃と朔の間に落ちた無言の空気の一切を読まずに、伊吹は実に間延びした声を出した。
「え。あ、はい。終わりました」
「じゃー紅茶でも淹れよっか。ほんとは珈琲といきたいところだけど、隆人みたいに巧く淹れられなきゃ豆に申し訳ないからね」
「……じゃ、じゃあ。あたし用意します」
「そ?なら、こっちは片付けてくるわね。男性陣はカウンター席に移動して?」
 ひょいと救急箱を持ち上げ居住区へと向かう。残された三人が伊吹のテンポについていけない間に、彼女はさっさと奥へと行ってしまった。
「あの。では、座ってて下さい」
 ぎこちなく声を掛け、カウンターへ向かおうとして、柚乃は立ち止まった。そんな柚乃の言葉を待つように、朔も唖津も黙っていた。おそるおそるといった風にして、朔を見る。
「あたし、あの…。ずっと、誤解、してました。…ごめんなさい」
 萎れた声は、柚乃が頭を下げることで床に転がる。
 あの日、あの晩に、あの場へ飛び込んでいたなら、違う今があったと思うと、遣り切れない。ずっと自分を想ってくれていた人に、酷いことを言った。傷つけた。謝って許されることではないかもしれないけれど、誤解が解けたことだけは知ってほしかった。
「擦れ違いは、解消した…?」
「…そう、思います。本当に、ごめ、」
「ありがとう」
 柚乃の謝罪を遮って、降ってきたのは予想もしなかった言葉で。
「え…?」
 思わず上げてしまった視線の先にあったのは、柔らかい笑み。記憶に封じ込めていた優しい想い出にいる兄の笑顔。
「それだけで充分だ。ありがとう、ゆん」
 でも、とは続けられなかった。本当に満足している顔つきだった。
「まだ立ってたの?待ってて、すぐ準備するね」
 まるで見計らっていたかのようなタイミングだった。たぶん、実際はそうなのだろう。
「いえ。俺達はこれで失礼します。ありがとうございました」
 会釈して唖津を促すと早々に店から出て行ってしまった。鈴の音が余韻を残す。追いかけたい衝動が湧き起こるも、呼び止めて何と言葉を交わせばいいのか、言いたいことが判らない。否、話したいと思うのに、頭の中は錯雑に散らかっている。
「ゆーのぉ」間延びした声がする。
「隆人さん…」
 いつの間にか帰宅していた隆人の隣に伊吹は並んでいた。二人は、見守るあたたかさを携えて、目配せする。
 こくり、と頷く。
「あたし、家族にゆんって呼ばれてました。それで、あの、もしよかったら、」
「ゆん、行ってこい」隆人は外を指す。
「ゆーんっ、必ず戻ってくんのよ?隆人、泣いちゃうから」伊吹は揶揄するのを忘れない。
「泣くかよ」据えた目を妻に向け、もう一度柚乃を見る。
「ここは、ゆんの家なんだからな。俺達は家族だ。ちゃんと帰ってこいよ」
「……っ、はいっ!」
 ぺこっとお辞儀をして、そのまま駆け出した。再び二人の顔を見てしまったら、泣いてしまう予感があった。
 陽の光と風は、飛び出した柚乃を優しく受け入れる。小さくなりつつあった背中を見つけ、声を張り上げた。
「お兄ちゃんっ!!」
 驚いた顔が振り返った。隣に並ぶ弟は、歳に不釣合いな穏やかな微笑みを浮かべている。縫い止められた二人に追いつき、正面から兄を見た。
「お守り大事にしててくれて、嬉しかった」
 財布から落ちたのは、柚乃が昔あげたお守りだった。手作りしたもので、幼子が作った通りのいびつなものだ。中には柚乃が見つけた四つ葉のクローバーが入っている。
 昔、河原で朔が見つけてくれたクローバーは、今も柚乃の手元にある。机の引き出しに、仕舞われている。
 朔の表情が、くしゃりと歪む。泣くのかと、思うほどに。
「あたしは、ここにいるから。白露庵に、いるから。だから、いつでも来て。…お兄ちゃん」




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