智姫を呼んだのは生徒会役員で、書記担当の子が駆け寄ってくる。
「あれ、どうしたの?」
 制服を着用しているが手に鞄はなく、携帯電話だけ握りしめていた。道端に停めた車から降りてきたところを見ると、一度帰宅して家族に送ってもらったらしい。運転席にいた女性、おそらく母親がわざわざ降りてきて智姫たちに会釈した。
 会釈を返したところで書記の子が辿り着く。
「良かったです、会長。すっかり忘れてしまってて…」
 よほど慌てていたらしく、けれど智姫を発見したことで解決の糸口が掴めたようでもあって。
 落ち着いて、と諭してようやと上がっていた息を整える所作を開始する。大きく深呼吸して、改めて向き直った。
「すみません。会長の印をもらわないといけないのがあったんです。最上先輩に伝えてあったんですけど、忘れてしまって…」
 会長の決済印は職員室に保管している。原則、生徒で扱っていいのは会長職に就いている者だけ。故に、智姫か雅司が職員室に赴き、その場で押印しなければいけない決まりだった。
 印が必要な書類の内容を問えば、提出期限が本日までのものだった。
 総てが自分の非であるといわんばかりに恐縮していて、見ているこっちが居た堪れなくなる。細部までチェックしていなかった智姫にも非はある。それに、事前に雅司には伝えていたのに双方が忘れていたのなら、双方に非があるだけのこと。
「うん、いーよ。今から戻って押すね。というわけだから、先帰ってていーよ」
 後半は秀司に言う。盲判するわけにもいかないので多少時間は取られることになる。秀司まで電車を遅らせる必要はない。秀司の返事を待たず手を振り踵を返し、小走りで学校へと戻った。

 幸い職員室には教師がいて、押印作業はそうかからずに完了した。その間、少なくとも五回は謝罪と礼を述べられ、かえってこっちが恐縮しそうになる。
 職員室をあとにし玄関に辿り着くと、秀司が待っていた。
「待っててくれたの?帰ってよかったのに」
「ちーのことだからすぐ終わると思ってたし、兄貴の不始末のフォローにでもなればと」
「優秀な弟君だね」
 茶化しても秀司は真面目な顔つきを変えない。
「それと、暗くなっての一人歩きは危険だしな」
 紳士だなぁ、との揶揄は飲み込んだ。心配してくれているのが存分に伝わってくる。
「身を護るくらいの力は持ってるつもりだけど」
「あんま過信すんな。てか、人の好意は受け取っとけばいーの」
「了解。受け取った」
 むきになってくれる懸命さが、嬉しい。秀司は本当に、優しい。
 駅までの道程を半分ほど消化した距離で、ふいに秀司が足を止め、天を見上げた。
「ちー、走れる?雨がきそうだ」
 秀司にならって振り仰いでも何も察知できない。
「雨?」
 群青に染まりつつある空の端はまだ夕暮れ色が残っていて、薄く雲が確認できたが星の輝きも見つけられる。雨雲のような色濃いものはない。
 が直後、ぽつ、と頬に雫が当たった。
「え…?」
「きた」
 秀司の声に呼応したわけでもないだろうが、直線的に姿を変えた雨が攻撃を開始した。まさにバケツを引っくり返したような激しさ。
「うっそだぁ…」
 茫然と呟いたところで、体感している感触は現実で。ぼけっとしている暇を与えられず、引っ張られた。
「ちー、行くよっ」
 掌にぬくもりが、と思ったら、秀司と手を繋いでいた。前を走る速度に、遅れて足並みを揃える。さらに遅れて現況に実感が湧くと、手を繋いでいる事実に顔が熱くなった。とたん、鼓動が暴れ出す。
 智姫を誘導する背中は周囲に捜し物をする視線を這わせていて、その視線が背後に向かないことを祈るしかなかった。どうにもコントロールをつけられない表情を見られるなど、あってほしくない。


[短編掲載中]