まず一歩。
 一度歩き出したら歩みを止めてはいけない。
 進め。止まるな。逃げるな。立ち向かえ。
 約束を護る為に。笑っていてもらう為に。ずっと、何度も、言い聞かせている。呪文のように、繰り返し。
 ――だから、揺らがないで。
 目の前にある、自身に向けられた直線的な視線を受けながら、心の中で唱えていた。

「どういうことなんだよ、ちー」
 秀司にしては珍しい語調だった。すぐに返答をしないで彼の双眸を見つめていたら、二度同じことを言って、智姫の返事を待っている。
 放課後の喧騒が駆け巡る廊下で、向かい合っていた。窓側に寄り、全開の窓から吹き込んでくる風に秀司の前髪が揺られていた。ジャージ姿の秀司は、これから部活だ。そんな時間の無い合間をぬって、智姫に会いにきた。
 眼前に突き出された紙を奪還し、息を吐く。
「怒ってるみたいだけど、秀司に怒られる理由が判んない。大体ね、どうして秀司がこれ、持ってんの?」
 紙の表題は進路希望調査票。記入者欄には智姫の名前。第三希望までの記入欄は、二番目までが埋められていた。もっともらしくするのであれば総て記載するべきだと思ったけれど、急場では思いつかなかった。要するに、記載内容は全く希望ではない大学名だ。
「先生から借りてきた」
 秀司は律儀に答える。言った瞬間だけ、悪いことをしている認識が垣間見えた。だが重要なのはそこではない、といった風に、秀司は表情を引き締め直す。
「俺の質問に答えてないよ。言ってた大学とまるっきり違うじゃないか」
 秀司とは、目指す大学が同じだった。それを知り得て、互いに頑張ろうと語り合った。無事合格した後のことや、将来の進む路を。
「約束してたわけじゃないし。進路なんて変わるもんだよ」
 わざわざ口にして確かめ合わなくても、暗黙の内に同じ大学へ進むことは約束事になっていた。進路が変更になることはないと、信じていた。たぶんそれは、秀司も一緒だったに違いない。
 新たに提出した欄には、これまで記入してきた大学の名は一つも含まれていなかった。
 約束ではなかったと端的に衝かれ、一瞬だけ秀司は声を詰まらせた。が、これくらいのことで下がるくらいなら、最初から勢い込んで来たりはしないのだろう。
「一言くらい言ってくれたって、いいんじゃないのか?」
「そっか。友達甲斐が無かったかもね。――とにかく、そういうことだから」
 ひどくざわつく内面が露呈しないようにするには、ひたすら冷淡を心掛けるしかなかった。
 詩姫には好きな人がいる。相手は、秀司。そう、確信した。
 応援すると約束した。あの笑顔を曇らせたくないと、願っている。
 ならば、距離を作る他ないではないか。同じ大学を目指すなど、できるわけがない。
「話それだけ?あたし、生徒会に行かなきゃなんないから、」
 逸らすように目線を動かして、語尾が途切れた。廊下の先、視界の届かないところから、異様な雰囲気が雪崩れ込んできた。戸惑いや恐怖、そういった類の悪寒が駆けるような感覚の空気が伝播し、廊下を駆けていく。
 嫌な予感がした。直感が、智姫を衝き動かす。
「ちー!?」
 秀司が声をあげた時にはすでに、智姫はそれを背に受け、走り出していた。


[短編掲載中]