実際に音にしてみて、確信が芽生える。井ノ瀬に気づかせてもらった。
 間違っていた。他に方法がないなんて、単なる思い込みでしかなかった。取り返しはつくだろうか。きちんと話せば、詩姫なら判ってくれるだろうか。
 ぐい、と、痛感が腕に宿る。急激な引力が生じ、身体の傾ぎが止まった時には、間近に坂巻の顔が迫っていた。きついくらいの腕を掴む力に、顔をしかめる。
「お望み通りに、してやろうか」
 腕が悲鳴をあげる。痛みに負けぬよう、鋭く坂巻を見返した。
「解放してやるよ。…キスを条件にな」
「なっ…!?」
 これまで幾度も仕掛けられては、徹底的に拒んできた。恋愛の対象外相手にしたくはなかったし、要求してきた坂巻にはおそらく、加虐の気持ちがあるだけだった。
 例の証拠写真は拒む直前の瞬間を切り取ったものだ。見方によっては親密に見えなくもないが、内実は天と地ほどに違う。
 互いに気持ちなどない。好きかもしれないなど、岩永の幻想でしかない。
 坂巻は一度言ったことは曲げない。そう聞いている。短い付き合いの中でも、実証する出来事はあった。だからこの条件を飲めば自由になれる確率は高い。
 護る為なら、たいしたことではない。そう、己に言い聞かせた。
 強く目蓋を閉じた。感触が少しでも不明瞭になるようにと、唇を結ぶ。気配が近づく。集中しないよう意識を他に散らそうとして、失敗する。
 初めては好きな人としたい。漠然と思ってきたことが、今ここで、強い思いとなる。けれど、遅い。
 事故だと思えばいい。カウントしなければいい。必死に言い聞かせている中、ふ、と音がした。鼻で笑う音。気配が離れる。腕の痛みが解放される。
「つまんねぇ女だな。こっちから願い下げだ」
 目蓋を開けた。坂巻の無表情が見下ろしていた。何かを言いかけて、音になる前に口を閉ざす。身を翻し坂巻が離れていって、茫然と立ち尽くす智姫の横を、風が通り抜けた。風には影があり、それがバスケットのユニフォームだと覚る。坂巻に殴りかかっていくその後ろ姿は、秀司だった。
 混乱のままに止めに入ろうとして、間に合わなかった。
 不意を衝かれた坂巻の横っ面に、秀司の拳が見事に入った。とはいえ、さすが喧嘩慣れしていると言うべきか、殴られた衝撃に一歩だけよろめきはしても地面に膝をつくことはなかった。鋭い眼光が秀司を突き刺す。
 坂巻の手が反撃体勢に握られ、それを捉えながら、智姫は二人の間に滑り込むことに成功した。両手を広げ、坂巻に対峙する。懇願する目線が届いたかは不明。けれど、坂巻は拳を弛めた。
「ちー!どくんだっ!」
 怒鳴り声がぶつけられる。肩に秀司の手が置かれ、脇にどけようと力が籠もる。抗い、足を踏ん張った。ここでどいたら、先は想像に容易い。
「どかない!」
「ちー!!」
 荒げる声をぶつけ合う。秀司は何も悪くないのに、と嫌気がさした。
「こいつなんだろ!?怪我も!髪も!」
「秀、司…っ」
 目の奥が熱くなり、震える唇を噛み締め堪えた。秀司の優しさが嬉しい。嬉しくて、辛い。
 数瞬の間、傍観を決め込んでいた坂巻は口端を歪め、顔を横に向けると血の混ざる唾を吐き出した。親指の腹で殴られて切れた唇を乱暴に拭い、白けた面を晒す。
「これは……、そいつの髪の分だ」
 唾棄するように言い、立ち去る言葉も無いままに踵を返し、場にいる誰の反応も待たずに行ってしまった。
 自分達だけを囲う辺りが静寂に落ちて数秒後、横に突き出していた智姫の腕を秀司がやんわりと下げさせた。ぎこちなく身体を動かし、視線を合わせる。気まずさに、数歩分の距離をとった。
「心配、してくれたの?」
「当たり前だろ」
 秀司にしては珍しい物言いの連発だった。常の柔和な空気は微塵もなく、気圧される。
「あの…。ありがと」空気を呑む。思いのほか喉が大きく鳴って、緊張しているのだと自覚した。「…で、でもね、危ないよ。あいつ、人間凶器だから」
 仕返し受けなくて良かった、と雰囲気を軽くしたくて笑ってみせたのだけど、期待は華麗に失墜した。笑える状況じゃないのは承知でも、怒りに満ちている秀司に怯んでいて。雑多な感情が込み上げてくる。
 泣きそうになって、でも泣くわけにいかなくて。こうして助けにきてくれた事実が、ひどく嬉しくて。


[短編掲載中]