自室に駆け込むなりベッドに上がり、智姫は掛け布団を頭からかぶった。真っ暗になった小さな空間に、自身の呼気が切れ切れに満ちていく。顔が熱いのは布団をかぶっているからじゃなく。心臓が張り裂けんばかりに強く鼓動を刻むのは走って帰ったからではなく。
 数十分前の場面を思い出しては、飛び出しそうになる悲鳴を懸命に飲み込んだ。
 明日学校でどんな顔して会えばいいの!?
 引っ叩かれたような秀司の顔が脳裏に浮かぶ。――間違いなく、傷つけた。
 だけど、と言い訳なら浮かぶ。きっと秀司は智姫を責めたりはしない。謝ってさえくるかもしれない。
 ずっとこんな態度では駄目だって、判っている。判ってても、躯が勝手に動いてしまうのだから始末に悪い。
 口語にもなっていない呻きを上げて、布団の中で蹲った。場面を思い出しては、明日以降のすべきことを言うべきことを必死に考える。
 約束通り秀司と一緒に駅までの道のりを歩いて帰った。雅司の囃し立てがあった後なだけに、二人の間には微妙な空気はあったのだけど、ぽつぽつと何気ない会話をしているうちに常の空気感に戻っていた。
 こっそり安堵していたら、急いで帰る用事がないなら遠回りしていかないかと提案され、乗った。一緒にいたいと思ってくれたことが嬉しかったし、智姫自身がそうしていたかった。
 なだらかな坂道の歩道をゆっくりの速度で歩く。車通りも人通りも少なく、街の灯りがちらほら点り始めた時刻で、ささやかな夜景が眼下に拡がり始めていた。
 指先が少し冷えてきたな、と思ったタイミングで、秀司が智姫の手をとった。雅司曰くの『幼稚園児並み』な繋ぎ方で、すっぽり包まれる自分の手を見ていたら、胸のあたりがあたたかくなった。先のことは判らないけれど、少なくとも今の自分は充分に幸せを感じてる。急いで周りに合わせる必要なんかないと思えた。なのに。
 ほんの少し、秀司の手に力が入ったのが判った。直後歩みが止まり、見上げても秀司はこちらを見てなくて。なにを、と口を開きかけた瞬間、もう片方の手が智姫の二の腕を掴んだ。痛みがあるほどに強くはなくても、余裕の無さがその指先から伝わってきて、身を硬くした。
 完全に正面で向かい合う形になって、名前を呼んで問い掛けるよりも早く、秀司の顔が近づいてきた。なんの前触れもない唐突な行動に、身を竦ませ顔を逸らしていた。
 一瞬だけ秀司が怯んで、けれどすぐに、先ほどよりも腕を掴む手に力が入る。智姫の戸惑いも躊躇いも気にしていられない様子で、秀司らしからぬ強引さで、顔を近づけようとした。
 気づいたら腕を目一杯突っ張ねていた。押し遣るというには易しい表現で、あれはきっと、突き飛ばした、の方がしっくりとくる。ご丁寧に「やだ」などと付けた上での行動は、とってしまった後ではどうにもならない。混乱していて、どうすれば正解なんて判るわけもなく、秀司を置き去りに走り去っていた。
 突き放した直後の表情が目蓋の裏にこびりついて離れない。
 よりにもよって、やだとか口走るか、あたし。
 あとになって反省しても遅い。だからといってあの場ですぐどうこうできるノウハウなど持ち合わせがない。秀司と、が嫌なわけじゃない。急なことでびっくりしただけだ。
 せめてうっかり失言がなければフォローのしようもあるけれど。考えれば考えるほど最悪な気分に沈んでいくだけだった。


◇◇◇


「んーで?最上弟にどんな非情な仕打ちをしたわけ。喧嘩ってのとも違う感じだから、つまりはあんたがなんかしたんでしょ」
 放課後になって生徒会室に居座る百花は、一日様子を見ていてその結論に達したらしい。決め付けてかかられるのもいかがなものか、と思うけれど、結局のところ正解なので反論など返せるわけもなく。
 颯爽とかわせる技術もなければ気力もなく、粘られるのが必須ならば最初っから話してしまった方がいい。と話してしまった。話しているうちに、強引だった秀司にも非があるんじゃないか、と思ったりもしたのだけど、百花の断言はいっそ小気味いいくらいだった。
「千パーセントあんたが悪い」
 鼻っ面に指を差されて、むっとして横へと押しのけた。
「指差すな。あたしだけが悪いって、どーゆうことよ」
 不満げな声になる。少しくらい味方の部分があってもいいではないか。
「最上弟側に立って考えてもみなよ。それともなに。いちいち『キスしましょう?』とか宣言が必要なわけ?空気読めってゆーの。よりにもよって突き飛ばして逃げるか」
 百花の言うことは判らないでもないけれど。
「突き飛ばしたって言っても、よろけもしないくらいの強さだし…。そ、そりゃね、やだとか言ったのはさすがに酷いと思うけど…」
 突然のことに驚いたのだ。秀司が緊張していたのだとしても、こちらの気持ちを汲んでくれてもよさそうなのに。突き放す前に、逃げ腰になっていたのは判っていた筈だ。
「やだは無いよねー。無い無い。有り得ない」
 これだから恋愛初心者は、などと溜息と共に言い添える。
「ちょっと、」
 茶化し突入する前に止めてやろう斜に見遣った。
「いい?」ずい、と百花は顔を寄せて迫ってきた。「仮にも彼氏に、そーゆうシュチュエーションで、言ってはいけない言葉よ?逆に拒否られたらどうなのって考えなさい」
 考えるまでもない。あの表情は、他に言い表しようのないくらい明確だった。
「……傷つけました…」
 もっと冷静に物事に対処できたなら、秀司にあんな顔をさせることはなかった。充分に判っている。
「フォローしてないんでしょ」
 頷く。それどころか、顔合わせないように逃げ廻ってさえいた。
 深く息を吐かれ、全面的に自分が悪いと思わざるを得ない。
「謝んな」
「でも、」
「謝れ」
 本気で苛立ってるわけではないのだろうが雑な語調に圧される。罪悪感から、反発する気は消滅していた。
「あんたってさ、上級生相手でも全然怯まないくせに、それ、狙ってんの?」
 しゅんと肩を落とした智姫を見て、百花は空気を解く。延々とお説教を受けている気分から解放されて、ようやと息がつける。
「それ、の指すところは雅司が言ってたツンデレのこと?」
 冗談にしても怒るよ、と睨みつける。狙ってやれるなら秀司の前で普通でいられることを選ぶ。自分らしくない自分が一番嫌なのは智姫自身なのだ。
「ごめんごめん。でもさ、誰と付き合ってもそうだったの?最上弟がハツカレ?」
 遡って思い返すこと数秒。考えた末、曖昧に首を横に振った。
「坂巻をカウントしてる?」
 よもや無いよね、との含みが存分に感じられた。
「してない」苦笑してこれにも首を振る。「初めて、ってわけじゃない、かな。どっちかっていうと苦い思い出でさ、間抜けっぽいからあんま話したくない。――まともに付き合うっていうのは秀司が初めてかな、そうなると」
「話したくないなら無理には聞かない。けど、謝るのは早いにこしたことはないよ」
「判ってる」
「んじゃ、行きますか」
 むんずと腕を掴まれる。即行なのかと面くらいながらも、引っ張られるままにつんのめりながらついて行く。散々逃げ廻ったとはいえ、昨日の今日で謝るのと日数が空いてしまうのでは雲泥の差だ。尻込みつつも百花の強引さに感謝した。


[短編掲載中]