百花が真っ先に足を向けたのは体育館だった。
 部活が終わる時間には少し遅いかも、と思っていたら案の定、捌けた後だった。次に顔を出した部室ももう出た後で、教室に寄ってくと言っていたと教えられた。
 携帯鳴らせばいいのでは、との提案は、「こういうのは直接会っていわなきゃ駄目なの」とばっさり却下された。別に電話で済まそうとしてるわけではなく、場所を決めて待っててもらうくらいの内容ならいいのでは、と思ったけれど口にはしなかった。
 それに、今日一日避けてて、そんな約束を取り付けるのすらつっかえずにできる気はしなかった。百花がそこまで智姫の心情を読んでいたとは思いがたいけれど。
 秀司の教室を視界に捉える。わずかながらに緊張が立ち上る。どんな顔をされるのか、想像もつかない。
 怖い。不安に襲われた瞬間、足が止まってしまう。前を行く百花も立ち止まり、振り返る。無遠慮なむっとした顔のさらに先、目的の教室から人影が出てきた。秀司だ。
 智姫たちのいる方角とは真逆に進んでいく。行き先を決めている、迷いのない足取りだった。
 強張ったまま、離れていく後ろ姿を凝視する智姫の視線を、百花も辿った。
「生徒会室に行くんじゃない?」
 確かに、玄関とは方向が違う。確かに、生徒会室の方角を気にしながら足早に進んでいた。
 でも、と足はまだ動こうとしない。不安の支配力は強い。
「あれ絶対、智姫捜してるって。早く行きな」
 肘でつつかれる。ようやと足が動かせそうな気がして、今度はばたばたと騒がしい数個の足音に踏み止まった。二人の男子生徒が教室から出てきて秀司に絡む。クラスメイトだ、とは判っても、名前までは知らない。あまり一緒にいるところを見かけたことはないので、そう親しいわけでもない筈だ。
 一人が秀司の首に腕を廻しじゃれつく。楽しげな二人とは対照的に、秀司は少し煩わしそうな顔つきになっていた。
「賭け、どうなったよ?」
 他愛ない日常会話の軽やかさの中に、囃し立てる色が混ざっていた。
「できたのかよ。期限まで日が無いけど」
「鬼会長相手じゃ苦労するよなー」
「彼氏なのにお預けくらってんじゃ、憐れだよ。付き合ってんのか?って感じだよな」
 秀司じゃない声が次々に発し、笑い合っている。秀司の声が何事かを言っているが、紛れてしまって聞き取れない。
 動けなかった。隣に立つ百花も動かない。届いたばかりの言葉の意味を咀嚼していた。話題の肴は秀司と智姫であるのは明白で。
「負けたら罰ゲームなんにするって言ってたっけ」
 嬉々とした声があがる。
「賭け…?」呆然と呟く智姫の声は百花にしか聞こえていない。「あれ、賭けだったの?」
 むきになっていたと、思えなくもない。
 前傾しかけた智姫の腕を百花が掴む。同時に、ひと際大きくなった秀司の声が小集団を黙らせた。
「その話だけどっ、」
 秀司の半顔が振り返る。視界に人影が入ったか、さらにぎこちなく顔が動く。智姫と目が合って、秀司は口が半開きのまま固まった。一点に固定された視線を不審に思った他も視線を動かし、凝固した。
「百花の嘘つき」
 低く唸る。秀司を睨み据えたままで。
「あたしが悪いって、言えないよね」
 百花を責めるのはお門違いだとは判っていた。判っていたが、お門違いな方角に怒りを向けていないと、今にも泣き出しそうになる。そんな失態だけは絶対に避けたかった。
 ぎゅうっと唇を噛み締めて、感情の沸点が若干でもいいから下がるのを待つ。それから秀司と目線を合わせた。
「賭けたのは、彼氏としての面子?それともお金?」
 ひどく醜い声だった。自分のものとは思えないほどの。だけど、止められない。
「言ってくれたら、彼女として協力してあげたのに」
 秀司の表情が、歪んだ。
 きっと自分は今、すごく嫌な笑い方をしている。遣り切れない感情を、醜悪な形で全面に出している。精一杯の虚勢を張っていたかった。泣きたくなっているなど、隠し通したかった。弱さを見せて堪るかと、懸命になる。
 言い切って、限界はすぐに込み上げた。表情が崩れる前に、嗚咽を零してしまう前に、走り出した。秀司が呼んでも無視した。誰かの「鬼会長まじコエー」との揶揄が聞こえても、振り返らなかった。
 隠れられる場所が生徒会室しか思い浮かばず、全力疾走のまま飛び込んだ。窓辺に佇んでいた影が唐突な物音に驚いて振り返り、智姫を見て目を剥いた。
「智姫っ?」
 秀司と同じ造りの顔が素っ頓狂な声をあげる。すでに見られてしまった後だったけれど、躯ごと見えない方向に捩り、乱暴に涙を拭った。
「智姫!」
 息急きった百花が続いて入ってくる。百花からも逃げるようにして、壁へと歩み寄った。
「なんかあった?」
 雅司の問い掛けは百花に向かっていた。当人に問うだけ無駄だと悟っている切り換えの速さだ。
 百花が手早くあったばかりの出来事を説明し、訊き終えたとたん、雅司が「あー」と苦々しく零した。
「あいつのフォローする義理はねぇけどさ、俺、いたんだよね。賭を持ちかけられた時。はなっから相手にしてなかったんだ。けど、あいつらも悪乗りしちゃってさ、しつこくて。そのうち売り言葉に買い言葉みたいになって、」
「もぉ、うるさい。雅司、あっち行け」
 つらつら並べ立ててくれる説明も、素直には聴き入れられなかった。八つ当たりだ。自覚はしている。雅司には不釣合いな気遣いが煩わしかった。
「えー…俺だけ?」
 想定の範囲内とでもいうのか、むっとしている感じはなかった。今の智姫には何も問えないと結論しているのか、こちらも百花に問い掛けているらしい。智姫の背中をさすってくれていた百花は溜息を吐く。
「あんただけ、のようね」
 八つ当たりはいけないことだ、なんてイイコのふりなんてしてらんない。
「その顔見たくない。その声、聞きたくない」
 酷い言い掛かりだ。普段から二人は別々の人間だと言っている者が言う台詞ではなかった。こんなにも自分は狭量の持ち主だったのかとうんざりする。
「へいへーい」
 軽口調がして、足音がひとつ遠ざかっていった。ドアが閉まり、しんとなる。
「八つ当たり」
 百花の呆れ声に頷き返す。
「判ってる。…ちゃんと謝る」
 ぐず、と洟をすすった。もう、色んなものがぐちゃぐちゃだ。
「最上兄の言ってること、真面目に聞いていいと思うよ」
「……判ってる、よ」
 信じたい。信じてる。だけど、どんな形にせよ、受けたのは事実だ。


[短編掲載中]