試合終了後、後片付けや相手校への挨拶なんかで騒然とした体育館の喧騒から一人抜け出した智姫は、生徒会室にいた。
 勝敗が決まった直後、妹から耳打ちされた言葉を、何度も何度も頭の中で反芻していた。そうしたかったわけではなく、強制的に脳内でぐるぐる巡っているといった方が表現としては正しい。
 詩姫が意地悪で言ったことではないのは判っていた。心配しているからこそ、確たる根拠が無くても耳に入れておきたかったのだ、と判っていた。
「でも、ちょっと」
 誰に向けてでもなく、独りごちた。
「きっつい、なぁ…」
 油断すると泣いてしまいそうだ。唇を噛み締め、目の奥の熱がひくまで凌ぐ。
 ばたばたと慌しく皆が動いている中から詩姫が近づいてきて、智姫の腕を掴むと人の耳が届かない隅っこへと連れていった。片づけが先でしょ、と諌めようとして、詩姫のあまりの真剣な面差しに飲み込んでしまった。
 さっき言おうとして言えなかったんだけど、と前置きして、耳打ちされた。
 ――付き合わなければ良かったって、言ってたらしいの。本人の口から聞いたわけじゃないよ?でも…。
 詩姫は言い淀んだ後、口を噤んだ。「でも」の後に続くのは、容易く想像がつく。火の無い所に煙は立たない。
 本人に確かめる前から決め付けてはかかれないけれど、確かめる勇気は無い。否定されると信じたくても、肯定されたらどうしたらいいか判らない。
 悪い方向にばかり思考は傾きがちで、独りきりで悶々としていると落ち込んでいく一方だった。
「やば…。ほんとに泣きそう」
 誰に見られるわけでもない状況なのだから構わないか、と涙腺が緩みかけた時、唐突にドアが開いた。俯いた状態のまま、凝固する。
「ちー?なんや、具合でも悪いんか?」
 ぎゅっと目をつぶって、そっと深呼吸してから顔を上げた。涙は巧く堰き止められて、ほっとする。
「びっくりした。ノックくらいしてよ」
「したで?返事無かってん、開くかなー思てやってみたら開いた」
 他校生とは思えないほど我が物顔で入室してくる。試合中は体力を使いきるほどに動き回っていたのに、すでにもう涼やかな顔だ。
 ノセは躊躇い無く智姫が座る執務机に腰掛けた。毎度雅司が座る位置だ。座り易い雰囲気が出てるのだとしたら、何か対策を考えないと。などと、どうでもいいことを思う。
 ざわめきがやけに気になり、戸口を見遣ればドアは開けっ放しになっていた。常は閉めているので、たった扉一枚とはいえ、微妙に違和感だった。廊下に流れる喧騒がいつもより大きく届く所為かもしれない。
「喰う?」
 いつの間に取り出したのか、ノセは板チョコを智姫の眼前に差し出していた。差し出されたまま齧れるようにアルミは剥がされている。
「試合終わったばっかりでよくそんな甘いもの食べられるよね」身を引きつつ首を振った。「スポーツの後ってハチミツレモンが相場って決まってるんじゃないの?」
「摂食済みや。んで、その後は糖度たっぷりの甘いもんって相場が決まってんねん」
 疲労が癒されるやろー、と間延びした言い方をし、けれどチョコレートは齧らなかった。
「他の人たちは?」
 来た時からジャージ姿で、おそらくこのまま帰るのだろう。大きなスポーツバックを担いでいて、帰る準備は整っていると判断できる。
「先に帰ったわー。試合終わったら、ちーおらへんようになっとって、ずいぶんなご挨拶やな」
「…ごめん」
 詩姫の情報を耳に入れた後では、目を合わすのも怖かった。だからここに、逃げ込んだ。
「みんなと帰らなくて良かったの?」
「初恋の君と別れを惜しんでくるわー、ゆうたら、あっさり行ってもうた」
「またそれ言う」露骨に呆れてみせる。ノセの明るさに救われる。「さらっと言うのはいかがなものかと。軟派すぎると痛い目遭うかもよ?」
 当然の如く雅司の顔が浮かび、実質痛い目に遭わされがちなのは秀司の方だった、と訂正する。
「マジバナやって」
「はいはい。詩姫と間違えてるんじゃないの?」
 うわ。これは僻みくさい。
「俺はちゃんと区別つけとったで。北海道に住んどる友達がな、そう言うんや。初恋やったんやろ、ってな。せやから、彼氏できて残念、やな」
 大仰に残念そうな表情を作られても、本気にとっていいか疑問だ。
「で、なんや、喧嘩でもしたんか」
「え?」
「双子のぉ…弟くん、の方やったっけ?ちーの彼氏」
 喧嘩といえば喧嘩のような。一方的に智姫が怒っているとも言えるような。首を捻り、しばし考えてみても明確には決められなくて。
「なんかね、」
 するりと話し掛ける言葉が零れていて、一度開けば芋づる式に続いてしまった。
「秀司は優しいし頭いいし、背も高くてさ」
「イケメンやし、って?」
 ノセの揶揄に素直に頷いた。残念と口にしたわりにはむくれる様子はなかった。
「なんや、惚気かい」
「もっとお似合いの子がいるよなって、思ったりする。あたしが彼女だと、嫌な思いすることが多いのかも」
「嫌な、って…。本人がそう言ってたんか?」
 強く首を振った。
「秀司はそんなこと言わないよ。でもね、たぶん…周囲は認めてないんだ。あたしじゃ彼女の器じゃない、みたいなとこあると思う」
 付き合わなければよかったなんて、後悔してる証拠だ。真面目な秀司は、絶対に軽々しく口にしない。それが吐露されたというのは、本気で後悔しているととれる。


[短編掲載中]