「更紗―!!」
 いきなり名前を叫ばれ、驚くよりも先に呆れる。走る靴音が聞こえてくる方角に顔を向けた。案の定の人物が、手に持っているものを掲げ、ぶんぶん振りながら笑顔満面で走ってくる。
「更紗いたっ」
 いちいち嬉しそうな顔すんな。喉まで出かかって、呑み込む。代わりに、手にしていた書類をテーブルに置いて両手をついたまま、更紗に笑いかけている高輝の頭を軽くはたく。
「会社で名前で呼ぶなって言ってんでしょ」
 いくら学生時代からの友人関係とはいえ、使い分けは必要だ。高輝の場合は使い分けする気がさらさらないように見受けられる。苗字で呼ばれる回数を数えた方が早い。
 高輝は、そうだったそうだった、と全く意に介していない態で、空いてる席にさも当然の如く座る。
「で、なに」
 テーブルに置かれたA4サイズの紙に視線を落とす。主となるデザインはど真ん中にある長方形の枠の中で、社名、ロゴ、部署名、肩書、名前、住所、電話番号、ホームページのURL、メールアドレスの情報が印字されたレイアウトになっている。言わずもがなのデザイン案だ。
「社内コンペの、できたんだ」
 高輝が口を開く前に続けてしまった。
 通常使用するサイズよりは見易いよう大きめに描かれていても、誰がどう見たって名刺デザインと判るのに、更紗が言い当てたことを「判るー?」と嬉しそうに首肯する。高輝の元来の性格を知らない人であれば、判らいでかと馬鹿にされてる気分になるところ。当然、高輝のこれは馬鹿にしてるのではなく、言い当ててくれたことに純粋に喜んでいるだけだ。
 数枚のデザイン案を渡され、目を通していく。横から暁登も覗き込んできて、見え易いように角度を調整した。
 社の設立当初から、数年に一度の割合で、自社名刺デザインを一新している。前回は6年前で、高輝が入社した年に行われた。勝手が判らないなりに案を提出し、最終選考までは残ったらしい。今回はリベンジだと気合充分だった。名刺は会社の顔、の意識は世間一般的に根強く、自社のものとはいえ、かなり本格的にやると聞いている。
 一枚一枚をめくる毎に高輝は「ね、ね、どうっ?どれがいい?」とせっついてくる。無視して手元に魅入っていた。
 これができないできないと頭を抱えていた人間が創り出したものか。――悔しい。
 称賛するよりも先に、醜い嫉妬が込み上げた。客観的に、営業職に就く者として、意見すべきだと掠めた。掠めただけで、それ以上の強さを持って、卑屈な気持ちが膨れる。
 適わない。なのに自分はまだ、デザイナーでありたいと願う。この才能と、とことんぶつかり合っていきたい。
 未練がましすぎて、泣けそう。
「ねぇ、暁登は?どれがいいと思う?」
 高輝はせっつく相手を変更する。
「待てない子供か」暁登は息を吐き、デザイン案から目を離した。「こーゆうのってさ、フツー丸とか三角とかじゃないのか」
 ちょうど手にしていた1枚をテーブルに置き、指先で叩いた。ノックするような軽やかな音に、更紗も視座を転じる。暁登が指してしるのは氏名の箇所だ。
「それだとイメージ湧かなくて」
「だとしても人の名前でやるか?自分の名前でやるだろ」
 印字されていたのは『南 更紗』だった。改めて見直すと総てのデザインの中に更紗の名前があった。頬が熱を帯びる。
「営業っていえば更紗ってイメージなんだもん」子供みたいにむくれる。「最初はね、記号でやってたの。ぜんっぜん浮かばなくてさ、実際名前入れてみたら浮かぶかなぁって。そしたらドンピシャ。すごいよ、更紗」
 あたしはなんもしてない。人の名前勝手に使うな。
 悪態をつこうと思えばいくらでも浮かぶ。そのどれも口にできなかった。――嬉しくて。他の誰でもない、更紗の名前を選んだ。
 深い意味は、無い。単純に営業職で仲のいい者を選択したにすぎない。そう判っていても、やっぱり嬉しい。
「てことは、南をイメージして創った?」
 暁登の質問に、高輝は首を傾げた。
「それとはちょっと、違うかな。あ、でも、ひとつだけ更紗っぽいなってのは混じってる。一応、デザイン偏らないように意識したんだけど、似通っちゃってる?」
「ちゃんとばらけてる」
 デザインに視線を吸い込まれたまま、口を挟んだ。高輝が言うように、ぱっと見、同じ人物が描いたとは思えないものばかりだった。けれど自分なら判る。ばらけている中に、高輝らしさが滲んでる。
 更紗の断言を聞き、高輝は「よかったぁ」と大きく息を吐いた。心底安堵した、と伝わる。
「すげぇ影響力」
 暁登はくくくと笑う。高輝も更紗も、なんのことだか判らずきょとんとする。
「だってあれだろ。南の一言で思いっきり安心したろ、楠木」
「え、だって、更紗のこと信頼してんもん」
 さらりと言う。青空って青色だよね、と当然のことを口にするような口振りで、更紗を全面的に信頼してると言ってのける。天然人たらしもいいとこだ。
 特別だと、勘違いしてはいけない。
 こんなことは案外多い。知り合ってからの時間の分だけ、更紗には他以上の親近感を持って接してくる。特別だからではないのだ。否、ある意味では特別なのかもしれない。社内では、他と比べれば親しい距離、という特別。更紗の望むそれとは、かけ離れている。
 最後の1枚で、手が、止まった。釘づけとなる。
「どれがいいと思う?」
 凝固する更紗を覗き込む態で高輝は訊いた。「ねーねー」とねだる様は小学生と大差ない。
 デザイン案をテーブルに広げた。ひと通り見直して――やはり一点で止まる。
「南、決めた?」暁登が問い掛けてくる。
「うん」
 申し合わせたように、各自が同時に指差した。それぞれ違うデザインを選んでいた。更紗は、ラストの1枚を指している。
 おぉ、と感嘆の声を上げたのは、高輝だ。
「更紗、すごい。それ、更紗っぽいなって思ってたやつ」
 本当に嬉しそうに笑顔が輝く。ごまかすようにして、選んだデザインに視線を落とした。純粋で無邪気というのは、時にひどく残酷だ。
 平静な声音を必死に作る。「あたしは、これが一番いいと思う」
「好き?」
 無邪気に、楽しそうに、そんな単語を吐かないでよ。
 せり上がる感情を喉の奥で留め置き、小さく深く息を吸い込んだ。ゆっくりと高輝の方へと顔を動かし、目を合わせる。
「好きだよ」



[短編掲載中]