喉の奥の感情が、震えた。馬鹿みたいだ。そういう告白ではないのに、心音が騒いでる。一生高輝には言えない本心を、違う意味合いで言ったところで、虚しいだけ。ほんと馬鹿じゃないの。嘲る内側の声に蓋をして、紙を持ち上げた。
「でもね、なんだろ。もうちょっとなんていうか…」
 何かが違う。どこがどう違うのか、釈然としない。じっと見つめる。名刺サイズまで縮小し、交換の場面を想像する。営業の扉を叩く第一歩の、大事な場面だ。
 あ、と声を上げた。名前の後ろを、少しだけ掠めるように、斜めに通っている一筋のラインを指した。滑らかで不規則、絶妙な太さの強弱をつけた波線。モノトーンカラーは無難で落ち着きがあって、会社として使用するには申し分ない。申し分がないだけに、面白みに欠ける。ささやかな遊び心なら、あってもいいんじゃないだろうか。
「このラインね、カラーにしたらどうかな。グレイッシュトーンなら派手にならないし強調しすぎない。控えめに、でも存在感を損なわない程度の色合いで。社名も大事だけどさ、やっぱ名前覚えてもらうのが第一だと思うし。そうなるとこのラインって、ちょうど名前を静かに支えてるというか、協調してる雰囲気じゃない?」
「なるほどな」声をあげたのは暁登だ。
「何色?」高輝の面差しは真剣なものに変貌する。「更紗なら、何色にする?」
 デザイナーの顔だ。纏う空気が一瞬にして締まる。まるで別人のように。その緊張感にも似た空気感が、すごく心地いい。
「そうだな」呟き、想像を膨らませる。手の中にある、高輝がデザインした名刺を思い浮かべる。「ラズベリーピンク」
 答えを受けて、高輝も思案顔になった。「刺し色には、いいかもしんない」
「けっこう好きだよな、その色。小物とか持ってるだろ」
 暁登の指摘はごもっともだ。よく見てるものだと驚く。
「小物くらいは明るい色で、って買ったりするかな。選ぶのが多い色かも。…でもあれだね。男性にはどうなのよって色だよね」デザイン案を暁登の顔横あたりに掲げ見比べてみる。「あ、じゃあさ、ここは各自の好きな色にするってのはどう?名刺にもオリジナリティをつけるみたいなコンセプトで。まったく同じデザインって統一感って意味ではいいのかもだけど、一か所くらい個性出すのもいいんじゃない?」
「面白いかもな」暁登が言い、「俺だったら…」と考えている。
 間髪入れずに、更紗と高輝の声が揃った。「黒!」
「どんなイメージだよ」暁登は不本意そうに眉根を寄せた。


◇◇◇


 ミーティングルームと称されたオフィスの一角に設けられたスペースで、更紗はデザイナーの阪木と向かい合っていた。――正確に表現するならば、睨み合っていた、というのが、きっとしっくりくる。
 テーブルには書類が所狭しと雑然と広げられていた。6人掛けのテーブルセットの4脚は空席で、書類を挟んで二人だけの言葉の応酬が憚られずに繰り広げられている。
 ミーティングルームとはいっても、パーテーションで区切られているだけの空間だ。音は遺憾無くだだ漏れ。今は隣接する他のミーティングルームに来客もなく、社内人に関しては毎度のことに慣れているので、誰も気に留めたりはしていない。
「だから、どうして、判ってくれないんですか」
 打ち合わせを開始して数十分。言葉を交わす毎に音量は上がっており、とうとう荒げるまでに達してしまった。きたきた、なんて揶揄がどこからか聞こえてきた。面白がんな、こっちは真剣なんだ。などと外野にまで噛み付いている場合ではないので、ぐっと堪えてスルーだ。
 クライアントから持ち帰った事案を、ずいっと阪木へと、更に差し出す。指摘箇所を指で叩いた。ひとつ挙げる度に突っかかってくるものだから、打ち合わせの進捗は芳しくない。
 こだわりも我も強い阪木には、根気と平静心が必要不可欠、とは、さんざっぱら遣り合ってきた更紗をはじめ、社内の常識となっている。が、いかんせん更紗にも負けず劣らず引けない線が明確に存在する。頑固者同士がぶつかれば、平穏で済むわけがない。
 その性格ってさ、職人気質だよねぇ。
 能天気な面構えで、のんびりとそう言い放った高輝が不意に浮かんで、こっそり苦笑した。高輝にしてみたらおそらく、その台詞は賛辞だった筈だ。そう思えば嬉しくないわけはない。が、営業としてはどうなのだ、ということになる。
 営業職に転向して3年目にして、妥協点の少ない営業――裏読みすれば『融通の利きにくい営業』として不名誉な称号を陰でつけられていることを、当の本人は知っている。
 融通が利かないのではない、納得いくまで摺り合わせていいものを創りたいだけだ、と胸中で言い返している。それってやっぱり職人気質ってことなんだろうか、と時折自問するのは、少なからず高輝の所為だ。
「いちいち全部要求通りに作れってんなら猿にだってできんだよ。俺らなんて必要ないだろうが。猿が不満ならそのへんの学生にバイトでやらせろよ。そこそこのもんなら創れるだろ」
 口が悪いことで有名な阪木は『歯に衣を着せない』が服を着ているような男だ。クライアントを交えての打ち合わせで、地を控えることなく発揮し、破談にした武勇伝を持つ。以降、クライアントとは直接会わない方向で仕事は進められている。その間に入って交渉していくのが、更紗の所属する営業部の仕事の一端である。
 デザイナーが同席するとその場でイメージの摺り合わせが可能となるので、殊更スムーズに進むことが多い。こと阪木に関しては真逆だ。御破算になること請け合いなのだ。
「いちいち全部要求通りに作れなんてどの口が言ったってんですか!要望を組み込んでほしいって言ってるんですよ、あたしは」
「向こうの要望を織り交ぜて俺にやらせればこうなんだよ」
「要望が皆無に等しいから言ってるんです」
「こんな」クライアントの要望書を滑らせて寄越す。「つまんない要望通りに創ったって、面白くないもんができるだけだ。面白みもなんもない要望を、期待以上のもんに仕上げてほしいからこその依頼なんじゃないのかよ。しょっぱなから決まってる形押し付けるだけなら、外注なんざしなけりゃいいんだよ。このデザインのどこが悪いってんだ」
「悪くないです!あたしは好きです!」
 啖呵きる口調で言うことか、との突っ込みが聞こえてきそうだ。言われた阪木は一瞬だけ呆気にとられ、本格的な呆れ顔になる。
「だったら、てめーが好きだって思えるんなら、それを推すのがあんたの仕事だろう。クライアントの言いなりになってんじゃねぇよ」
「言いなりになんてなってないですよ」
 とっくにやった。散々推して、説得して。粘れるだけ粘った。他にもやりようがあるのかもしれないけれど、こちらの我を押し付けるだけでは駄目なのだ。更紗にはまだまだ足りないことが多い。
「文句あんならあんたが描けばいい。俺は降りる」
 途中で投げ出すとか言うな。投げ出さなくても遣り合えるだけの才能を持ってるくせに。仕事としてデザインを創り出せる場所を持ってるくせに。
 腹立ちついでに立ち上がり、勢いついでにテーブルに手をついた。派手な音がした。掌がじんと痺れる。
「自分で描けるんならやってます。できないから、お願いするしかないんじゃないですか。あたし、阪木さんの感性に惚れてるんですよ!全然適わないなって、いっつも思わされてます。あたしなんかじゃ思いつきもしないこと、やるじゃないですか。いつもわくわくするんです。阪木さんじゃなきゃこの仕事は成り立ちません!」
 喧嘩腰でいったい自分は何を捲し立てた。叫んだ内容を思い返し、顔に熱が上昇する。



[短編掲載中]