阪木との論戦は日常茶飯事と言っても大袈裟ではないにしろ、ここまでの啖呵をきったことなど初めてだ。いよいよもって呆れ果てた阪木から返答はない。せめて何らかのリアクションでもあれば、こちらも動きようもあるのだけど。凝固した二人が見つめ合う恰好となる。
 控えめに、軽やかな音が割り込んだ。パーテーションをノックする音だ。弾かれたように更紗と阪木の視線が一斉にそちらを向く。気圧された表情で立っていたのは高輝だった。「あのー、大丈夫、ですか」
 おずとした声に、スイッチが入る。
「関係ない奴は引っ込んでろ」阪木が怒鳴り、
「関係ないんだから黙ってて」更紗も怒鳴っていた。見事にハモる。
 一歩腰が引けた高輝の後ろから、人影が覗く。デザイン部の部長だ。
「引っ込んでられるか。阪木さん、会議の時間だ」
 あぁ、と一気にトーンダウンする。「そんな時間ですか」
 阪木は持参物をまとめると、振り向かないどころか更紗に声も掛けずに出て行く。デザイン画をそっくり残して。
 これは用無しってことですか。検討の余地無しってことですか。本当に投げ出すわけですか。
 更紗の手の下に、数案のうちの一点があった。思い切り握り潰してやりたい衝動が沸き、実際に指先に力が入りかけて、静止した。
 こんな綺麗なもの、潰せるわけがない。
 張っていた糸がぷっつり切れたようにして、椅子に座った。デザイン画を眺める。悔しい。何度も思う。更紗には創り出せないものを創り出す才能も、どれだけ素晴らしいものを持っていっても相手に受諾させるだけの力量が自分に無いことも。
「更紗」
 高輝の気配が近づく。
 まだいたの。あんたも会議でしょ。さっさと行きなさいよ。つか、名前で呼ぶなって何度言えば判るの。――浮かんだどれも、口にできなかった。名を呼ぶ声音が、あまりにもあたたかい。
 顔を上げられなくて、俯き気味にテーブルの上を睨みつけていた。高輝から続きの言葉は無かった。代わりに、掌が頭の上に乗る。ぽんぽんと二度軽く叩き、気配が去っていく。
 なによ、馬鹿。
 やっぱり悪態は口から出なかった。


◇◇◇


 紅茶ラテを口に含む。ゆっくりと喉を滑り落ちていく甘みに、ひと息吐いた。
 阪木との打ち合わせ直後、くさくさした心地では到底通常業務に戻れそうになく、気分転換にと自販機まで足を運んだ。テーブルセットが視界に入り、誘惑に負けるかたちで座った。少し気持ちを落ちつかせないと、かえって効率が悪い。
 と、誰にともなく言い訳を並べている割には、己の手にあるものを見て苦笑する。阪木のデザイン案だ。
 更紗自身はこれを推したい。変更するなど、勿体無いと思えるくらいだ。阪木の言葉はあまねくもっともだと、内心では思っていた。どうしてこれを受け容れないのか、クライアントに腹が立つくらいに。それでも、押し付けるわけにはいかない。
 要望書がどんなに無難で遊びがなくて面白くなくても、クライアントが希望する形を創らなければ仕事にならない。懐柔の線引きはその時々だし人によっても会社によっても変わってくる。柔軟に立ち廻り対応していかなければ成り立たない。
「あーもう、悔しい」
 盛大な嘆息と共に俯いた。阪木みたいに「降りる」と投げ出してやりたい。でも、このデザインをこのまま葬ってしまうのはあまりにも惜しい。というか、絶対にしたくない。投げ出したくない。
「更紗ちゃんおつかれさまー」
 鈴が鳴るような可愛らしい声音。表情を平時のものに戻し、顔を上げた。天地が引っくり返っても更紗には真似すらできない女らしさを、計算抜きで地でいく人物――服部梨恵が近づいてくる。
 さすが共有スペース。知り合いがいれば声を掛けてくるものなんだな。などと、どうでもいいところで感心する。そして、こんな絶賛へこみ中の時にはできれば逢いたくなかった。梨恵が悪いのではない。更紗の側の問題だ。
 梨恵は、高輝の好きな人。
 テンションを平常運転に保つのも億劫だった。億劫なままに従うわけにもいかず、気を入れた。
 お疲れさま、と返し、笑顔を向ける。「外出してたの?」
「うん。銀行に」
 梨恵は事務兼経理を担当している。月末日には銀行窓口での手続きが諸々あるらしい。
「そっか、月末だ」
 朝から締めだ何だでばたばたしてたのに、阪木との打ち合わせで全部すっ飛んでいた。机上の惨状を思い出し、げんなりする。休憩とか、自分を甘やかしてる場合じゃなかった。
「更紗ちゃんが飲んでるの、美味しそう」
「あたしは好きだけど。飲んでみる?」
「ありがとー」
 差し出された缶を受け取り一口飲む。その一連の動作すらも可愛らしい。性格って動きにまで滲み出るもんなんだな、としみじみ思う。だからどんなに仲良くても、高輝は自分を好きにはならないんだな、とも。胸に痛みが刺す。
 大人になれば、心が痛くなるような恋愛感情は、無くなるものだと思っていた。もっと余裕があって、理性と巧くコントロールしながら付き合っていける感情になるものだと。学生時代にあったみたいな、想いが痛くて仕方ないことなんて、無くなると思っていた。
 しかも高輝相手に。しかも高輝に協力を頼まれた後に、己の気持ちに気づくとか、冗談でしょうと笑い飛ばしてやりたい。
「美味しい。あたしもこれからはこれ飲もーっと。いい?」
「え?…あ、うん。もちろん」
 いちいち了承とらなくていいよ、は呑み込んだ。突き放した言い方になってしまう。
「疲れ顔だね」梨恵は心配そうに覗き込んでくる。
「月末だからね」苦笑のかたちで笑ってみせた。
 本当は阪木との打ち合わせの所為だけど。彼の性格を知らぬ人に愚痴ろうとしても、性格云々の説明からしなくてはならないことを考えると、口が重くなる。
「営業の人って大変そうだよね。うちの会社も月末近くになると数字数字で空気ぴりぴりしたりするもん。更紗ちゃん、今月は?」
「ギリクリアー」
「やったね。お疲れさまだね」
 笑顔になり、音が鳴るか鳴らないかくらいの拍手をくれる。共有スペースを考慮しての動きだ。
 気遣いができて、素直で、女の子らしくて。――もっと嫌な人間だったら。そしたら純粋に嫌いでいられたのに。協力なんてしないで、止めとけって助言だって、きっとした。
 醜い願いが沸き起こり、慌てて消去した。自分の狭量を知る度に、嫌気が差す。高輝への想いなんてさっさと封印して消滅させて、友達としてちゃんと背中を押してやるべきなのに。未練がましくて嫌になる。



[短編掲載中]