月末締めを無事済ませ、定時を3時間ほど超過した頃合いに、更紗は暁登と一緒に部署を出た。
 オフィス内は基本、部署ごとに執務机が島分けされ、背丈の低いファイル収納棚で区切られている。要となるデザイン部だけは背丈のあるパーテーションで区切られていた。外部の人間も多く出入りするので、見えないようにする為だ。天井付近は抜けているので、電気が点いていれば人がいると判る。
 島の横をすり抜ける度に退社の挨拶を投げていく。どの島からも疲弊の滲む返答が返ってきた。流れ作業のようにデザイン部の前でも声だけかけて進んでいく。ちらほら返ってくる中に、違う音が混ざる。ドアを開ける音だ。
「更紗っ、暁登っ、今帰り?待って、俺も帰るから。一緒に帰ろう。あ、ご飯食べてこうよ。待ってて!」
 高輝は返事を待たず身を翻す。あっという間にパーテーションの中へと消えた。ばたばたと帰り支度を整える様が浮かぶ。立ち止まり振り返っていた二人は顔を見合わせた。
「無視?」
 暁登はついと出口の方へ顎をしゃくった。
「賛成」
 エレベーターホールには箱待ち態勢の梨恵がいた。月末は普段より遅くなる確率が高く、帰り時刻が揃うことが多い。声を掛けると「お疲れさま」と返す梨恵からも覇気が失われていた。
 そこへ走って追いついてきた高輝が加わる。
「ひどいよ、更紗。暁登も。置いてかないでしょ、普通。服部さん、これからみんなでご飯行こうってなってるんだけど、一緒に行かない?」
 忙しなくこっち見てむくれ、あっち見て笑顔を向ける。
「いつ決定した?」暁登はあからさまに呆れ顔だ。
「みんなって、あたしと嶋河くんのことかな。決まってない筈けど」更紗も負けず呆れ顔で零す。
「2人ともひどい」高輝が大袈裟に嘆いた。
「行こうよ、4人で」梨恵が楽しげに笑った。
 ビル近くの居酒屋に入った。安くて美味しく気取らないこの店は、近隣オフィスのサラリーマンでいつも賑わっていた。更紗達も立ち寄ることはしばしばで、店員とは顔馴染みだ。
 月末打ち上げ的な思考が働くものなのか、週中にも関わらず満席となる。更紗達は滑り込みでテーブル席へとついていた。置かれたばかりの飲み物を各自持って、グラスをかち合わせる。更紗と暁登はビール。高輝は酎ハイ。梨恵はロンググラスのカクテルだ。
 ジョッキの半分ほどまで一気に煽った。テーブルに置くと同時に息を吐く。
「男前すぎ」
「なにもおかしいことないですよ、嶋河くん」
 笑いを押し殺す暁登に一瞥くれ、更紗は澄ました。
「とりあえずビール、ってことが若い世代では無くなってきてるみたいだよね。この前テレビでやってた。更紗ちゃんも嶋河くんも、まずはビールだよね」
 そう言う梨恵の前には可愛らしい色合いのカクテルがある。似合うよね、と素直に思う。
 更紗も、酒類解禁の年齢に達してまず手をつけたのは、カクテルだった。ビールは何度か挑戦したものの、苦手な味から脱することはなかった。営業部に入って、味わって飲むものではなく、喉ごしで飲むものだと教わった。
「取引先にね、ウケがいいんだ」
「え?」
 梨恵は更紗の言葉にきょとんとした。暁登にはそれだけで伝わってるようだ。
「取引先と会食とか行くじゃない?とりあえずビール、って頼むと大体の人は「おっ」て思うみたい。お、飲めるねって。特におじさま世代にはさ、それで感触がよくなること多いよ」
 メニューを覗き込んでもたもた選ばないだけでも、相手方の心証は向上する。酒席も仕事のうちだと学んだのも、営業部に配属になってからだ。
「更紗は努力家だからねー」
 高輝が言い、誇らしげに笑う。
「楠木が嬉しそうにすんのが判らん」
 暁登は呆れた調子で言い、ビールを煽る。ジョッキには3分の1ほどしか残っていない。なかなかの飲みっぷりだ。
「努力したとか言わないでよ。まるで練習したみたいじゃない」
 更紗もジョッキを煽ったものの、巧く喉へと滑らなかった。口の中に苦味が広がる。
 喉ごしの感覚が掴めるまで、自身の中で格闘があったことは否定しない。体質が受け付けるのをいいことに、一時期は意地気味に煽ったことも否定しない。営業部に異動になって1年目、何においても必死に喰らいついていた時期のことだ。けれど、それを表面に出してきたつもりはなかった。高輝がそれに気づいていたとも考えにくく、単なる当てずっぽうと決めつける。
 他愛ない会話でおつまみ程度の料理を皆でつついた。1時間ほど経過した頃には、ほどよく酔いも廻った。明日も仕事だから、と畳む雰囲気になり、高輝が手洗いへと立つ。食べ残しが無いよう手分けして片すのは、4人で飲みに来た時の暗黙のルールだ。適当に取り皿に振り分けていく。
「南さ、海外組の話、聞いた?」
「いよいよ本格的に乗り出すらしいよね」
 社として正式発表がまだの情報だ。一番に関係してくる総務部及び営業部には噂レベルから信憑性の高いものまで、情報が流れてくる。
 社外秘ではない話題と判断できるので、梨恵は黙って耳を傾ける態ではあるものの、興味をそそられた目つきになっていた。
 1年ほど前から、英国ロンドンに駐在し視察を行なっている派遣員がいる。市場開発が可能かどうかを調査する為だ。古くから芸術に馴染んでいる国に、新規参入の余地はあるのか。販路は見込めるのか。
 結果報告が上層部にあったと耳に挟んだのは2カ月ほど前だ。協議に協議を重ね、どうやら本格参入に乗り出すことに決めたらしい、と聞いたのは数日前。
 現在の駐在員は2名。新規開拓ともなれば到底足りる数ではない。現地スタッフを募集すると共に、日本からの常駐員の社内選考も行われているらしい。営業部からは数名が候補にあるとの噂だ。とはいえ更紗は営業職に就いて3年目。相応しい年代、キャリアの者は他にごろごろしている。自分には無関係と括っていた。
 海外支社を出す動きがあると掻い摘んで梨恵に話す。興味津々なさまは変化ない。
「ね、それって更紗ちゃん達にも関わってくるの?」
「無い無い」顔の前で手をひらひら振った。「嶋河くんはどうだろ。内示的なものとかあったりした?」
 暁登は首を横に振った。「まだその段階にはなってないみたいだな。つか、南だって可能性無いわけじゃないだろ」
「無いよ。営業職ぺーぺーだもん」
 自己過小評価ではなく、身の丈を知っているだけのこと。
 デザイナーとしても営業としても中途半端。今の更紗はその段階だ。デザイナーに戻ることはおそらく、今の会社にいる限り有り得ない。かといって、現在デザインを手掛けていない者を中途採用する企業があるとは思えない。
 自分はいったいどうしたいのか。明確な意志が掴み切れていない。
 営業は自分なりに懸命に取り組んでいるつもりだった。一方で、デザイナー達に、創り出される作品に、嫉妬している。戻りたいという渇望も、確かにある。



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