テーブルのスタンドに刺してあったメニューを取る。流れ作業で、後方へと振り上げた。確かな手応えと鈍い音。暁登に向かって噛み付いていた声が、無様な呻きと共に途切れた。高輝の顔面にちゃんと直撃したことを示している。
「なにすんの、更紗っ」
「セクハラ」
「は?」
「腕どかさないと訴えるよ」
 顔を上げることには、成功していた。真っ直ぐに上げて、普段通りの、ふざける時の平坦な声音を吐き出すことにも、成功している。けれど、振り返れない。高輝の顔を、見上げられない。
 腕の力は緩んでも、はずれようとしない。そのぬくもりが、痛い。
「なんで?更紗だから問題ないじゃない」
 更紗だから。――親友だから。友達だから。女として、見ていない対象だから。
 抉られる。痛い。何度も何度も、突きつけられてきた。判ってた。判ってても、痛くて仕方ない。
「とりあえず、座れよ。…服部さんも」
 冷静な暁登の提案に二人は従う。ひととき集めていた店内の視線の数が、ちらちらと減っていく。
 腕が離れ、ぬくもりの残滓も、すっと消えた。代わりに、ひやりとした冷感が纏った気がして、小さく身震いした。メニューを持つ手に、力が篭もる。吸い込んだ空気が固まりとなって、喉につっかえた。無理矢理飲み下し、声を出す。
「高輝の誤解で早とちりだから」
 まだ落涙はしてなかった。目の淵に赤みが差しているかもしれないけれど、いくらでもごまかしてやる。なんでもないのだと、断言する。ほんの一瞬の場面を、誤解しただけなのだと、通さなければいけない。高輝と梨恵にだけは、晒してはいけない想いだ。
「けどっ、」
「南、頭痛いんだよ。ここで休憩してた。それだけだ」
 高輝の喰い下がりと、暁登の冷静が重なる。4人の中で、平常心を保っているのは暁登だけだ。殊更落ち着かせようとするように、ゆっくりとした語調だった。
「さっきの電話では言ってなかったじゃないか」
 高輝が暁登に噛み付く構図に驚く。さきほどのは瞬発力で勢い込んでいただけと説明づけることが可能でも、座ることで周囲の目を気にかけられる程度の落ち着きを持った現時点で、根底にある怒りが少しも弛緩していない。音量を絞ろうが、荒ぶれた感情は健在だ。
「言ってなかったか?」暁登の空気はまるで変わらない。
 園を出てすぐの通話は、更紗の隣でされた。高輝の返答は届かずとも、暁登が理由をひとつも言わなかったことは確かだ。一方的に帰ると宣言し、一方的に切ったのだ。
「聞いてない。更紗の具合悪いのに、俺らだけ遊んでるとか、有り得ないだろ」
「ああ、そうだな」悪びれた様子もなく息を吐く。「言ってないわ。そうやって、変に気遣われたくないよな、南だって」
「変ってなんだよ。友達心配すんの、当然だろ」
「だな。まったくもって言う通りだよ、楠木。けど正しくない。他人の気持ちくらい、汲めよ」
 暁登が、高輝の感情に触発されてないことだけは、確信が持てた。露骨に含まれる棘は何故なのか。いっそ冷徹にさえ聞こえる。
 空気、悪い。本当に具合が悪くなりそうだ。
「翻訳するとね」
 更紗は、意識して作った声で、梨恵に話し掛ける。居心地悪そうに、男二人の応酬に戸惑って強張っていた表情が、揺れた。更紗に向けられたのもまた、戸惑いだ。
「更紗ちゃん?」
 更紗の開口によって、高輝も暁登も閉口した。じっと見つめてくる。二つの双眸を無視して、更紗は梨恵だけを見つめる。
「さっきの、高輝の言ったことを翻訳すると、『更紗は俺にとって男友達同然なんだから抱きついてなにが悪い』なの」
 だよねと高輝に視線を振る。首肯や同意の言が映り込むより先に、再び梨恵を見遣る。
「あたしさ、女扱いされてないから。学生の時からそう。昔っから変わんない」
 これからも変わらないよ。続けようとして、止めた。否、口にできなかった。抉られたように痛む箇所を、外側からでもいい、掌で押えることができたなら。脈動に合わせる激痛を、少しくらいは和らげられるかもしれない。でも、叶わない。痛いのは頭じゃない。胸を押さえつけるわけにはいかない。
 つらつらと、冗談めかして言えるだけ上出来だ。声が震えてない自分を、褒めてやりたい。
 誰かが口を挟む前に、続けた。
「専門学校の時からの付き合いで、気心知れてるもんだからさ、単に友達に甘えてるんだよね。甘えっこ体質なの、判ってると思うけど」
 おどけてみせた。笑い声も、立ててみせた。懸命に演技する。下手でもなんでも、演じ続ける。単なる友達だから。貴女が心配するような、まして嫉妬するようなことなんて、何ひとつ無いんだからと。
 抉るだけ抉って、心なんて無くなってしまえばいいのに。そうしたらもう、痛みを感じなくて済む。
「でもさ、やっぱ躾って大事だよね。はい、これ」
 メニューを、梨恵に差し出した。たじろいで動けない梨恵の手をとって持たせる。首を傾げる様は、困った顔でも可愛らしい。
「梨恵ちゃんに任せた。最初が肝心ってことで、一発殴っとけば。あ、こっちの方が効果的だね」
 面で叩くのではなく、縁で叩けるように持ち直させた。梨恵はわずかに身を引いて戸惑う。
 暁登が噴き出す。「ついに南もお手上げか」
 察しのいい人間は本当に助かる。これで空気を変えられる。
「そ、お手上げ。じゃあまずはお手本でも見せますか」
 メニューを取り上げる。高輝に躰の正面を向けた。
「え、更紗?冗談だろ」
 高輝の引き攣った顔が可笑しいと、遠慮なく噴き出した。
 怒りに染まる顔も、曇った顔も、見たくない。気づかないのなら、一生気づかなくていい。無邪気なまま、笑っててほしい。



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