好きな人はいない。いなくなる。なくしてしまおうとしてる。今が辛くて、現実から目を逸らしたくて、必死に願ってる。自分の気持ちにケリをつけたいと。
 弱音を吐き出してしまえば、少しは楽になれるだろうか。高輝を直接知らないひかりになら愚痴ってしまっても、更紗を取り巻くごく身近な環境に、影響はない筈で。
 悪魔の囁きが如く、内側から声がする。言うことで楽になれるなら。想いを消せる方法が知れるなら。
「仕事に生きる、男なんて要らない。とか、言う?」
「まっさかぁ」
 そんな風にも考えたことはない。かといって、結婚ってなんだろうとも考える。今は共働きなんて当たり前の時代で、結婚したら是非家に入ってほしいなんて主張は珍しくなりつつある。
 仕事はようやと楽しい場面も増えてきて、現時点だけの気持ちを言えば、結婚するより仕事をもっと突き詰めてみたいのが勝る。
 結婚して共働きになったところで、結局は女の側に負担と煩わしさが増えるだけ、といったことも案外よく耳にする。だったら、子供がほしくなったら、子供ができたら、の時にすればいいのではないかと、思ったりもしていた。一人暮らしを寂しいと感じることもなく、一応自分の収入で生計は立てられている。
「四捨五入したら三十路だよ、うちら」
「年齢を四捨五入すんな。今はちょっと考えられないっていうか」
 言葉を濁す。結婚どころか恋愛すらも、しばらくは考えたくはない。
「悠長なこと言ってたら売れ残るよ」
「母親的な忠告、ありがとう」
 茶化して返す更紗に、ひかりは物足りなさそうな顔で呆れた。


◇◇◇


 週明け月曜日。どうして週末よりも明けの方が忙しいのか。行動予定表なる表題が掲げられたホワイトボードに向かいながら、更紗はふと思っていた。
 リタ・デザインオフィスは基本、土日祝日は休みだ。とはいえ、平日に片付かなかった仕事を休日返上で捌く人は多少なりともいる。現場は休日関係なく動いていることも多いので、週末に溜まった分が明けにどっと押し寄せる。部署が変わってから大体の流れは把握しているが、自分の中の予定通りに進められないことが大半だ。月曜はデスクに齧り付いていたくとも、クライアントあっての営業職。デスクワークだけに没頭させてはくれない。
 それでも今日の午前中は外出の予定も入らず、デリバリーカーで購入したお弁当を公園で食べ、午後一からの外出スケジュールとなった。自分の予定を書き込む欄にマジックを滑らせた。数軒廻ることが主であり、細かく行先は書かない。行先「市内」と帰社時間「18:00」と書き込む。
 鞄を取りに自席に戻りかけて、大声で名前を呼ばれ、眉根を寄せた。走り寄ってくる人物を睨む。溜息を吐き、鞄を手にしたところで、高輝もデスクに到着した。
「更紗っ、聞いてっ」
「名前!」
 低く諌める。社内の人間的には、これも日常茶飯事。更紗が注意する度、今更だろうという空気が流れる。更紗にしても今更な気分ではあるけれど、一応ポーズだけはとっている。
「やっとこっち来れたー。話したいことがあったんだ。というか報告なんだけど。あれ、出掛けんの」
「時間無いから後にしてもらっていい?」返事を待たず歩き出す。「行ってきます」誰にともなく鉄板の挨拶を投げ、オフィスを出た。
「待ってよ、更紗」
 後ろにくっついていた高輝が横に並び、歩調を合わせてくる。高輝の放つテンションの高さに合わせる気力がなかった。カフェでの出来事がまるで無かったかのようだ。忘れてしまったのではないのだと思う。単純に、それ以上の何かが、高輝を浮き上がらせている。よほどいいことがあったのだと、想像は容易い。それが、何であるかも。
 いつでも受け容れる覚悟は、していたつもりだった。つもりなだけだったのだと、思い知る。覚悟するという行為を甘く見ていた。
 エレベーターホールで下降ボタンを押す。ちょうど7階へと上昇してきた箱があったらしく、ランプの点灯した扉がすぐに開いた。降りてきた暁登と目が合う。
「おかえり」
 隣の高輝を殆ど無視していた。手で塞げない代わりに、意識で耳を塞いでいた。そんなことに集中していた所為で、暁登への挨拶が引き攣ったものになってしまう。
 おそらく暁登は、更紗の状況に気づいた。一瞬だけ思案顔が覗く。瞬きほどの間に掻き消え、同僚に向ける顔つきになる。
「ただいま。南これから外?…って、なに纏わりついてんだよ、楠木」
「暁登、お疲れー。ちょうどよかった。暁登も聞いて。俺ね、服部さんと付き合うことになったよ!」
 判っていた。実際耳にして、動揺しないようにと、ずっと前から心積もりをしていた筈なのに、呆気なく揺れた。膝を折りそうなほどの衝撃が、更紗の中に落ちた。それでも、わずかな動揺だけで持ち堪えられたのは、高輝の意識を自分に向けさせている暁登のおかげだ。更紗一人の状態で報告を受けたなら、どうなっていたか判らない。いくら鈍感な高輝でも、不審に思うことくらいはあったかもしれない。
「いつだ?送ってった時か」
 大きく表情を動かして――傍から見れば少し大袈裟なくらいの動かし方で、暁登は「そりゃよかったな」と喜んでみせて、まんまと高輝はそれに喰い付いた。ホールにくるまで更紗につれなくされた物足りなさからか、単純な喜びからか、だらしなく緩んだ笑顔で暁登に小刻みに頷いている。
「そうそう。そうなんだよ」
 明るい声。すこぶる機嫌がいい。当たり前だ。片想いが両想いに、なったのだから。
 俯き加減だった頭を、のろのろと上げた。暁登は熱心に聴く態だ。更紗と目が合わないのは、高輝の意識がこちらにいかないようにしているからだろうか。だとしたら相当濃やかだ。
 週末、カフェを出た後、二手に別れた。
 店先に出てすぐに「俺は南を送ってく。楠木はちゃんと服部さんを送ってけよ」と、暁登はさっさと指示を出し、更紗を促して歩き出した。
 告白は、梨恵からだったらしい。
 更紗の体調不良を素直に信じていた高輝は、言いつけ通りマンションの前まで送った。挨拶もそこそこに踵を返したところを呼び止められ、告白されたのだという。高輝の中では告白も付き合うもまだ先の段階の話で、驚いた。とはいえ、断る理由はどこにもない。
「よく電話してこなかったな」
 週明けを待ちきれずしてきそうなもんだけどな、お前なら。と言外にある。
「だって、更紗体調悪かったでしょ。だから我慢した」
 その日の20時頃、高輝からのメールはあった。体調を気遣う短い一文だけで、浮かれきった語句はひとつも無かった。
 更紗を振り返る高輝は、棄てられた子犬みたいに窺う面構えだ。週明けでお互いそれぞれの業務が忙しかったのもあるかもしれない。でも、朝から様子を窺っていたのだと知れる。おそらく更紗が昼食を昼休みの時間帯にとったことで、昼食を摂れる程度のひと段落がついたと判断したのだろう。忙殺されると抜いてしまうこともあり、何度か注意めいたことを言われた記憶がよぎった。
「よかったね」
 心底心配してくれたのだと気づけば、喩え『友人としてだけ』だったとしても、やっぱり嬉しい。そう思ったら、するりと零れていた。
「付き合えて、よかったね」



[短編掲載中]