結末は、判っていたのだ。自分はずっと、応援する立場を貫いてきた。修正できたかもしれない地点を見落として、高輝の恋を応援してきたのだ。友人として。
 だとしたら、今この時に適切な台詞を言うべきだ。想いを隠し通したいのなら、尚更に。
 更紗の作った笑顔が、ちゃんと笑顔になっていたらしい。高輝も満面の笑みとなる。
「南、時間大丈夫か」
「ああ、うん。だね。行かなきゃ」
 す、と腕時計に視線を落とす。唇を一度、強く噛んでから高輝を見た。「行ってきます」
「ごめんね、引き留めて。どうしても更紗には一番に言いたかったんだ」
 うん、と頷き、再び到着した箱に乗り込む。閉ボタンを押したところで、暁登が「あ、」と声をあげた。
「俺、コンビニ行こうと思ってたんだ。忘れてた」
 ホール側の下降ボタンを押し、閉まりかけていた扉が開く。暁登が乗り込んでくる隙に、高輝と瞳がかち合った。
「更紗、今度は俺の番だからね。更紗に好きな人できたら、絶対応援するから。いつでも言って。じゃあ、行ってらっしゃい」
 笑顔で手を振る高輝が、閉じる扉に阻まれ、見えなくなる。目の前にある無機質な扉を、凝固したまま、じっと凝視した。動けなかった。動くことで、自分の中の脆い部分が、刺激されるのが怖かった。
 エレベーターが微かな稼働音だけで下降を始める。隣に立つ暁登は、気配を消すかのように佇んでいた。顔を上向かせ、階数表示を眺めている。
「参っちゃうよね。なに、あれ。自分が巧くいったら先輩気取りですかっての。テンション高すぎ」
 笑声を、あげた。乾いて、からからに乾いた、掠れた音だ。同じく、双眸も乾けばいいと願うのに、反して熱を帯びていくのが判る。早く着け。早足でビルを出て、コンビニと逆方向に進めばいい。幸い今日は髪を縛っていない。俯き加減でいけば、顔見られずに済む。早く。早く。必死に願う。
「南、」
 息を呑んだ。声の温度が、沁みる。返事はできなかった。暁登の方を見ることも、できなかった。身じろぎもせず、立ち尽くす。
「…南、無理すんな。俺の前でまで、無理しなくていい」
「……っ」
 大丈夫。なに言ってんの。全然平気だよ。こうなることは判ってたからさ。これでやっと御役御免だね。よかった。うん、よかったよ。これであたしたち、自由だね。
 脳内ではいくらでも言葉が浮かんだ。どれも音にできなかった。喉の奥が詰まる。唐突に生じた塊が、声にするのを阻む。
 ふ、と空気が動いた。わずかに暁登が動く。肩の力を抜いた、くらいの、ほんの少しだけ。充分だった。強張っていた全身から、ゆるゆると力が抜けていく。
「あの能天気さで南を殺せそうだな」
 暁登の冗談口調に、ようやと息ができるようになる。
「ほんとだよね」苦笑と共に嘆息する。「息の根、止めてほしいよ」口内で呟いた。
 成長する想いを、殺してほしい。伸びなくていい。大きくならなくていい。ピエロを演じることにもう、疲れてしまった。枯れて腐り溶けて消えてしまえ。楽になりたい。
「道化師は卒業だな。卒業証書でも授与しようか。それとも花丸の方がいいか?」
「どっちも要らないよ」
 思わず笑み零れる。暁登も微笑んで、つと、表情が引き締まる。
「痛み耐えて、よく頑張ったな」
「…勘弁してよ。白い眼で見られたくなかったら」
 あと数秒もすれば1階に着く。立地条件の良さからか、ビル内に空きテナントスペースは無いと聞いている。収容社数が多いということは、それだけ人の数もあるということだ。ホールに誰もいないということはまず有り得ない。
「お気遣い、どうも」
 硬さの一切ない声音が、こちらを気遣ってのものだと判断できる。ここ最近で新しい一面を見せている同僚を、まじまじと見上げた。暁登はゆっくりと顔を更紗に向けた。目顔で「なに」と問う。
「疲れない?」
「楠木?」
 思わず噴き出す。「違う、違う。嶋河くんが」
「え、俺ってうざいか?」
「そうじゃなくて。嶋河くん自身が疲れることないのかなぁって。――機微に敏感ってさ、それだけ巧く立ち廻れるってことなんだろうけど、当人にしてみたらあちこちにアンテナ張ってる状態なわけだからさ。それって案外疲れるんじゃないのかなぁって、勝手に想像したんだけど」
 的外れなこと言ってしまったか、と、言ってから気づく。暁登が、驚いた顔をしたからだ。
「…なんて、知った口きかれたくないよね」笑ってごまかす。
「やっぱ楽」
 暁登の呟きは本当に小さくて、更紗にまで届かなかった。聞き返すと何でもないといった風にかぶりを振って、代わりに「よく見てんな、人のこと」と感心し、ゆるりと微笑んだ。


◇◇◇


 公園のベンチに更紗は腰を降ろした。書類でぱんぱんに膨らんだ鞄を脇に置くと、自然と深いため息が落ちる。風が柔らかく吹いて、木陰になるベンチは涼しい。陽を浴びて煌めく噴水の飛沫が、風の方向によっては少しだけ飛んでくる。頬にあたり、そっと指先で撫でた。微かな水分は、一瞬だけ煌めき、霧散した。
 外回りを終え、社に戻る途中に休憩を挟んだ。今日は後輩が一緒で、少しだけさぼろうかとの提案に無邪気に喜んでいた。ちょっとの息抜きは営業職の特典である。
 取引先からの帰り道の途中の公園傍に、クレープの専門店がある。財布の紐を緩めたのは更紗で、後輩が浮かれた足取りで買い出しに行った。クレープくらいで喜んでもらえるのなら安いものだ。自分も後輩を持つようになったのだと、しみじみ思う。ちなみに現在、営業職に就いている女性は更紗を含め3人。2人とも先輩だ。彼女たちから学ぶことは多い。
 あっという間だった。入社して必死に喰らい付き、営業部へ異動になって必死に喰らい付いた。必死になってばかりだと思い返せば笑いが零れる。
 ベンチの背もたれにべったりと背中をつけ、両手を天に伸ばした。思い切り伸びる。背骨が鈍く鳴る。盛大に息を吐きながら、一気に脱力した。システム手帳を取り出し、明日以降のスケジュールを確認する。これから社に戻ってやることを脳内で組み立て、一応の流れを決めたところで、後輩の戻りが遅いとふと思う。
 混んでいるのかと、公園を縁取る形で植えられた木々越しに店内を見遣る。後輩の姿は無かった。そう広くもない店内には平日の夕方ということもあって、数名の客がいるだけだ。首を巡らせる。両手にクレープを握り締めた後輩はすぐに見つかった。更紗の居場所が判らないのか、と手を挙げかけ、違うと気づく。一点を見ていた。視線の先を追う。長身の知った横顔を見つけ、彼に対峙する人物を見て、苦いものがちらりと胸をよぎった。
 暁登と、チョコ配達を依頼してきた取引先の女性だ。
 歩道にいる彼らは話に夢中なのか、公園内にいる更紗にも後輩にも気づく気配はない。わざわざ挨拶にいって邪魔に入るのも野暮なので、気づかれないままでいようと心に決める。となると、公園入口付近にいる後輩を回収しないと。
 後輩の携帯電話にかけた。マナーモードにしているので音は鳴らず振動のみだ。後輩は着信に気づくも、両手は塞がっているので慌てふためいた。彼の視界に入るよう大きく手を振った。ついでに携帯電話も。鳴らしているのが更紗と悟り、ほっとしている。後輩がベンチに近づいてくる間に、なんとなく気になって暁登の方を見、凝固した。
 暁登が笑う。ぞわりと背中を何かが撫でた感触みたいなものが走り、身震いした。



[短編掲載中]