例えば、更紗と高輝が好きなジャンルの映画が公開される。一緒に行こうと誘ってくる。これまでなら二人きりだろうと出掛けていた。互いにフリーで友達だったから。でも今は違う。彼女がいるのならそちらを誘うのが筋だ。明確に理由を言っても首を傾げられる。梨恵は苦手ジャンルなのだから可哀想じゃないか、趣味の合う者同士で観た方がよっぽど楽しいという。梨恵自身も了承しているのだから問題ないよねとも。
 梨恵が、高輝からその話題をふられて、了承しないわけはない。そこに我慢が生じているだろうことなんて、高輝にはきっと想像もつかないのだろう。
 何故あの日に、梨恵の方から告白したか、なんてことも。
 他にもある。この1ヶ月の間に梨恵の誕生日があった。高輝は当然とばかりに4人で集まろうと言い出し、これには暁登も加わって却下した。同性の暁登にまで言われ、それはそういうもんなのかと不承不承ながらも納得した。が、次はプレゼント選びに付き合ってほしいと更紗に白羽の矢が立つ。何をあげればいいのか判らない、というのが高輝の言い分だ。
 相談には乗るが一緒に店へと出向くのは却下した。どうしても喜んでもらいたいというのなら、陰で他の人と買いに行かず梨恵と行くべきと主張した。買ったものが判るのってプレゼントの楽しみ半減するじゃないか、と言い返してきた。一理あるとも思うけれど、サプライズになればそれでいいのかと言えば、そうじゃない。梨恵の気持ちを最優先にするべきと、意見をごり押した。
 ――だって更紗なのに。どうして遠慮みたいな恰好になるのさ。
 心底判らないといった風に口を尖らせる。言われる度に突き刺さる。さらりと言えば言うほど、ざっくりと深く。「だって更紗なのに」は「単なる友達なのに」に置き換わる。アウトオブ眼中宣言。
 付き合ってられるか、の気持ちが無かったとは言わない。
 高輝と梨恵が付き合い出してからも、4人で逢うのも、更紗と2人で出掛けるのも、変わることはないと高輝は踏んでいた。友好が変質するのはおかしいという。意見も認識も噛み合わず平行線な事項は多い。苛立ちは募る一方で、更紗の態度はぞんざいの一途を辿っている。それでも高輝はめげない。理解できないものを受諾する気はさらさらないらしい。
 ほどよく助け船を出してくれる暁登でさえも、この頃では白旗を振ろうか迷っている節が見え隠れしている。暁登にはフォローする義理はないので、いつでも振ろうが文句は言えるものではない。が、更紗にとっては存外痛手だ。面倒見がいい暁登の良心に凭れかかってしまっている。
 もしかしたら、更紗が暁登を頼りにしているのが言動のどこかに滲み出ていて、周囲の目には二人の距離感がかなり近いと勘違いさせているのかもしれない。だとすれば暁登にしれみれば迷惑この上ない状況だ。突っ撥ねきれない優しさがあるのだとすれば、更紗から線引きはちゃんとしなければいけない。
「南さん?」
 思考から舞い戻り、笑みを模って、心配そうな後輩に向けた。残りのクレープを全部口の中に放り込んで、包み紙を握り潰す。
 クレープの味が、褪せていた。


◇◇◇


 パソコンのキーボードを叩く。脳内で組み立てた文章がテキストに変身していく。仕事にメールツールは欠かせない。社会人5年目ともなれば、ビジネス文書も慣れたものだ。
 残業時間に突入していた。ここ最近は仕事が取れるのをいいことに、詰めれるだけ詰めている。忙しくしていられるのは、余計な思考が働かなくていい。帰宅時間が遅くなればくつろぐ間もなく寝支度をして、布団に潜り込んでしまえる。仕事があることに、こんなにも感謝したのは、給料日以外では無かったかもしれない。
 月中ということもあって、早めに退社できる者が大半だった。営業部の島には更紗と暁登しか残っていない。その暁登も、さきほどから暇そうにしている。せっかく帰れる状態なら帰った方がいいのに、とも思うが、帰られてしまうときっと心許無くなることは予想がついた。
 他部署は軒並み無人で、蛍光灯は消されている。オフィスの奥の方などは闇が佇んでいた。営業部の島の上だけ照明が点っていると、その闇は際立って不気味に感じられた。ビル自体は築浅で、古さ故のおどろおどろしさはないのだけれど、一人で残業ともなれば、取り残された感から心細くなる。
 メール作成画面から目を離さずに、暁登が自販機で買ってきてくれた紅茶ラテの缶を持った。暁登は缶珈琲で、更紗の隣のデスクに腰かけている。買いに行ってる間に盗み見た暁登のデスクには、パソコンが立ち上がってこそいるものの、綺麗に片付いていた。いつでも帰れる雰囲気だ。そろそろ切り上げた方がいいかもしれない。これを送信し終わったら今日は終わりにしよう。
「南」
「はいはい」
 メール画面に喰い入りながら、少し焦ったように返事をする。
「焦んなくていいよ」暁登は苦笑した。「文面だの送信先だの添付だの、間違えんなよ」
「言われなくても送る前に3回はチェックしてますー」
 小学生みたいな物言いを返す。言わずもがなのことを、上司から言われれば素直に忠告として聞き入れられても、同僚で友人の気安さからつい反発めいた心地が沸く。
 クリックひとつで瞬時に情報が送れる気軽さは、脅威でもある。他社には漏洩できない情報も多く扱う為、慎重に扱うことは常日頃から言われていることだった。誤送信などあってはならない。
 文面を打ち終え、添付をつける。宛先を呼び出し、チェックにかかる。
「南」
「うん」
 チェック2度目に差し掛かっており、画面を見たままの生返事となった。
「大丈夫か」
「あー、うん。これ送ったら締める。手伝ってもらうようなことは無いかな」
「じゃなくて、楠木の方」
 マウスを操る指先がかすかに揺れた。
「……大丈夫だよ。慣れた。っていうか、最初から判ってたことだからさ、あとは自分の気持ちにケリつけるだけ」
 画面を喰い入るように見つめる。温度ある声音が沁みて、暁登の気遣いが沁みて、テキストが滲みそうになる。無理矢理にでも、小さく笑ってみせた。
「大丈夫、大丈夫。嶋河くんさ、パソコン電源落としたら。駅まで一緒に行こうよ」
「遅いし、家まで送る」
「…うん。ありがと。いつも申し訳ない。次の給料入ったらご飯奢るよ」
 残業で遅くなる時、家まで送り届けてくれるのは慣例となりつつある。更紗の住むマンションは最寄駅から少し歩く上に、途中外灯の無い道を通る。以前、更紗の家で4人が集まって鍋をつつき、その帰りに更紗が3人を駅まで送っていったものの、折り返し暁登が更紗を家まで送ったことがあった。以降、帰路が暗くなる時間帯の時には必ず送ってくれるようになった。
 さすがに毎度では気が引けるので断ろうとしても、何かあった時に自分の後味が悪いからとの理屈を通してくる。
「高級ディナーのフルコースで」
 暁登は冗談口調で情報の詰まった端末を持ち上げる。
「財布に優しい料金設定のお店でお願いします…」
 更紗もわざとらしく苦い口調で返す。笑い、収束し、不意に沈黙が落ちた。3度目のチェックを開始する。
「南、」
「うん?」
 再び沈黙が落ちる。話し掛けておいてスムーズに紡がれないのは珍しい、と思いつつも、目の前の画面に集中した。
「付き合わないか」



[短編掲載中]