甘く響く。片意地はって、想い隠して、心はへとへとだ。信頼する相手から、いつもどこかで甘えさせてくれている相手から、これほどに魅惑的な台詞があるだろうか。傾ぎそうな心を、叱咤する。
「ごめん。やっぱ無理。――あたしね、無意識なのかな、高輝に関わる人のことはたぶん、好きにならない。どうしたってあいつが関わってくるでしょ」
 己の気持ちにきちんとケリがつかない限り、無理だ。
「だったら、俺も完璧に距離置く。そもそも会社は友達ごっこする場所じゃないしな」
「やめてよ。あいつ確かにあほな部分あるけど、本気で親友だって思ってるんだから。ごっこなんて言ったら泣くよ。離れたりなんかしたら絶対寂しがる。絶対駄目」
 ばっさり切ろうとする語調に、焦る。もうほとんど、懇願に近い。必死になってしまう自分が、悔しかった。
 暁登は更紗の勢いに、切なげに表情を歪めた。
「ほんっと馬鹿だな。…どこまで好きなんだよ、あいつのこと」
「馬鹿で間抜けでも、ピエロでいなきゃ。この想いが消えるまでは、役を辞めるわけにはいかないの」
 強い口調で断言するくせに、反して涙腺はだらしなく緩んでいく。止められない。止めたいと願うほどに、視界が滲んでいく。きつく奥歯を噛み締める。暁登からそっと、顔を背けた。
「南」
 幼子が駄々を捏ねるように、首を横に振った。まともに目など、合わせられるわけがない。泣き顔を晒すなど、絶対にしたくなかった。
 暁登が動く。デスクから腰を上げ、近づく。ゆっくりと持ち上がった大きな手が、更紗の頭に触れた。そっと髪を梳く。
「南、頑張りすぎんな。充分やったよ。もう、充分だ」


◇◇◇


 裏話をしてしまうと、更紗の手柄ではない。だから褒められたとしても、厳密には更紗が受けるべきではないけれど、悪い気はしないものだ。
 おとつい、営業部の部長から重要取引先との会食の店探しを命じられた。定時後のことで、何故かこの日に限って殆どの営業が直帰という状況だった。その場にいた更紗が一任されてしまい、今日中に予約をとって連絡をくれ、と言い残し、その上司も外出して戻らなかった。
 新規開拓しとけばよかった、などと後悔しても後の祭。
 とりあえず片っ端から営業に電話をかけるも捕まらない。ネット検索し、よさそうな店を1軒に絞り、行ってみることにした。良と判断したらその場で予約してしまおう。と決意したところで、暁登が帰社してきた。
 よほど困った顔になっていたらしい。
 挨拶もそこそこに、噴き出された。まがりなりにも交際申し込んだ相手にする態度ではない。
 暁登は、変わらなかった。何事も無かったかのように、あれは幻覚か夢だったのかと疑いたくなるくらい、更紗への接し方もこれまでと変わらない。意識してそうしているのかと観察してみても、いたって自然体に映る。やっぱり現実には無かったことなのかと結論しようにも、幻覚だろうが夢だろうが、更紗の側ではあれは『あったこと』であり、意識しないようにと気配れば配るほどに、ぎこちなくなっている気がする。
 そんなのが根底にあるものだから、周囲に人がいればまだしも、二人きりの状況は非常に気まずい。
 そんな内面も顕著だったか、今度は困った風に笑った。
 自席に鞄を降ろしながら、背中越しに手伝うことはないかと訊いてきた。顔を見合わせない会話にほっとする。ほっとしたことも、暁登にはお見通しなのだろう。
 苦いものを噛み締める心地のまま、簡潔に状況説明をした。営業に片っ端から電話した中でも、暁登だけは除外していたことを怒るでもなく、店を紹介してくれたのがおとついのことだ。
 何軒もの事前調査しているだけのことはあり、暁登は目も舌も肥えていた。上司も取引先にも好評だったらしい。更紗の功績ではない。褒め言葉を頂戴した直後に訂正しようとしたら、暁登に目顔で制された。これが今朝のことで、改めてちゃんとお礼を言う機会を逸したまま、時間ばかりが過ぎてしまった。
 外出の旨をホワイトボードに書き付けた暁登がオフィスを出て行く。数秒開けてから追いかけた。エレベーターホールで追いつくタイミングだ。
 近くの階に停止していたようで、更紗が着くのと同時くらいに箱が到着した。乗り込もうとしているところを呼び止める。緊急の用でもないのに思わず足止めしてしまったのは、それなりに意を決しての行動だったと物語っていた。他愛もない日常会話然としたものでも、更紗が意識してしまっている分、意気込みめいたものが必要になっていた。
 扉を手で押えた暁登は、更紗と目が合うなり後退した。扉が閉まり、箱が行ってしまう。
「うわぁ、ごめんっ」
 慌てて下降ボタンへと手を伸ばしかけると、軽く手首を掴まれた。一瞬のことで、すぐに放される。
「いい。そんなに急いでない」
 なに、と促してくる。
「うん。あの、さ」
 心地が上擦っている。意識しすぎているのを自覚して、己を叱咤した。やたら恥ずかしい上擦り方だ。
「これ、ありがとう」暁登に紹介してもらったショップカードを差し出す。「おかげですごい助かった」
「やるよ。こっちに入ってるから要らないんだよな」
 鞄を持ち上げ、ぽんぽんと叩いた。仕事の必須アイテムである携帯端末機が入っている筈だ。
「あ、うん、ありがと。もらっとく」
 勢いよく出してしまった分、引っ込みがつけづらく、おずおずと腕を降ろした。
 小さな笑声が起こり、見遣る。呆れたような笑みがあった。
「聞いてこいって言ったろ。忘れてんなよ」
 仕事で使えそうな店の開拓をしてるという話をした時のことだ。
「忘れてたわけじゃないんだけど」
 もごもごと言い返すと、暁登はさらに笑みを深くした。
「らしくねぇよな」
「え?」
「これくらいのことで遠慮するなんて、らしくない」
「し、してないよ」
 してるけど。遠慮というか、気恥ずかしさが先に立って、今まで通りに接するのが難しくはなっている。なんだこのへたれっぷりは、と己を哂いたくなる。
「それってさ」ずい、と一歩、暁登が近づく。「俺のこと、男として意識し始めてるってことか」
 揶揄心を隠す為に、真剣な顔を作ろうとしているのが有り体だ。むっとくるよりも、これまでは気にも留めなかった近距離にふためく。頬に熱が帯びるのが感じられた。
「おっ…オスとして見られたくなかったんじゃないの」
 どうしてこんなに冷静なんだ、この男は。落ち着きをなくした己が恥ずかしい。そんな更紗に構うことなく、暁登は身を屈めた。耳元に囁く。
「惚れた女は別。意識してもらわないとな」



[短編掲載中]