土曜日。出勤日ではないけれど、更紗は仕事をしていた。
 いくつかの現場を廻って、気づけば14時半を廻っていた。昼時に空腹を訴えていた胃も、移動の慌ただしさに紛れ、ピークを過ぎて大人しくなってしまった。とはいえ、空腹の第二波がやってこようもんなら、具合が悪くなるのは経験則だ。
「もうすぐ3時、なんだよねぇ」独りごちた。
 今から食事をするには中途半端である。このまま波がこないことを祈りつつ晩御飯まで食べずに過ごすか、遅めの昼食をたっぷり摂って晩御飯を抜かそうか。
 更紗はこじんまりとした佇まいの洋食店の前に立っていた。値段の安さに見合わない美味しさに加え、ランチではサラダバーがつく。16時まではランチタイムという有り難い設定もあって、お気に入りの店にリストアップしていた。
 入口手前に置かれたイーゼルに立てかけられた黒板には、可愛らしい文字で「本日のランチメニュー」なるものがカラフルなチョークで手書きされている。ランチタイムには店の外にまで行列ができるが、さすがにこの時間帯ではすぐにでも座れそうな様子だ。
 文字をおっている内に料理を想像してしまい、途端におなかが鳴った。誰に見られているわけでもないのに羞恥心が込み上げ、胃のあたりを片手で押える。入ろうと進みかけて、ふと視線を感じて首を巡らせた。
 視線は絡まなかったものの、見知った顔を発見する。
 この近くの高校の制服を纏った男子集団の中にいた。みな一様に大きなスポーツバックを肩から提げている。
 呼び名を迷い、結局苗字にした。
「嶋河くん」
 英が「あれ」という顔をして振り返る。ついでに、彼の周りにいた全員の視線も集中した。
「よく覚えてましたねー」
 英が抜け出てくる。見るからに重そうな鞄を持っていても、足取りは軽やかだ。
「一種の職業病というかさ。わりと得意なんだよね、人の顔と名前覚えんの」
 へぇ、と英が感心した声を出す。英ぁ、俺ら帰るなー、と団体の方から声があがる。英も片手をあげて「おー」と返す。あっさりしたもので、英が抜けた団体は振り返りもせずに行ってしまった。
「いいの?」
「別に用事があったわけじゃないんすよ。いっつもだらだらだべってふらふらしてるだけなんで。それより、これからご飯とかっすか?さっきメニュー見てたでしょ」
「気づいてたんなら声掛けなさいよ」
 さっき視線を感じたのは錯覚ではなかったらしい。
「俺は人の顔覚えんの苦手なんすよ。違ってたらハズイじゃん。そんなことより、ずいぶん中途半端な時間ですね」
「お昼食べそびれちゃって。空腹が限界」
 苦笑してみせると、英もつられるようにして笑った。笑うと兄に似ている。
「付き合いますよ。俺も部活の後で腹すいてんで」
「奢って、と顔に書いてあるなぁ」
「ばれましたか」
「残念でした。あたしは君の財布にはなんないから」
 英は大きく首を傾げた。「歴代彼女もしくはその座を狙う女性は奢ってくれましたけどね。俺に取り入って、兄貴への評価上げようって魂胆丸見えで」
 おっかしいなぁ、と呟く。本気とも覚束無い語調ではあるけれど、仮に事実なのだとしたら、斜に構えた見方をするようになるのも頷ける。
「可愛げないってよく言われない?つーか、単なる同僚だし。評価上げるとかいらないし?むしろ弱点掴んでここぞって時に足引っ張ってやろうかな、とか狙ってるくらいの相手だしね」
 若干の嘘を織り交ぜてしまったけれどそこは愛嬌だ。年下相手に、しかも暁登の弟相手に晒すこともない。
「いーね、南さん。気に入った」
 名前もちゃっかり憶えてるじゃないか。まったく、食えない兄弟だ。

 いくら部活後で空腹だからといって、がっちり一食分でいいのか、と思わないでもない。更紗のように一人暮らしなら勝手に調整もとれるけれど、家族と一緒に住んでいるのなら晩御飯の用意はしているものではないのか。要らないとなれば準備してくれる人への礼を欠くことになる。せめて連絡くらいは入れて然るべきだ。
 メニューを覗き込んでいる段でその危惧を口にしてみたら、あっさり「余裕で食べれる」との返事だった。恐るべし10代の食欲。燃費消費量は半端ないらしい。
「いっくら食べても減るんだよね。まじ病気じゃねぇのって感じ」
 しっかりおなかに溜まる系のセットを頼んだ後、英はぼやくように言う。自分が高校生の時、周囲の男子諸君はどうだったかと回顧し、2限目3限目が終わった短い休み時間にパンだのお弁当だのを掻き込んでる姿が浮かんだ。
「運動系の部活だよね?だから余計空くのかもね」
「あー、たぶん、そうっすね」
 料理を待つ間、バッシュを見せてもらった。暁登と英に街中でばったり出くわした日の話から、買ってもらった物の話題になった。更紗も知ってる某有名メーカー製で、値段が張りそうな代物だった。
 暁登は通勤に便利な場所で一人暮らしをしている。久方ぶりに実家へ帰ってみたら英に捕まり、買い物へと連れ出されたという。げんなりした暁登が思い出され、笑ってしまった。
「恰好いいね。あたし好きだなぁ」
「臆面なく言えちゃうんすね、好きとかって」
「デザインのことだよ。普通に言わない?」
 高校生という微妙な歳の頃はそういうもんだったろうか。またもや自分の頃を思い出してみても首が傾げる感触だ。
「まぁ、この場合はね。ほら、前回初対面した時。兄貴を呼び捨てにして好きだって」
「大事な言葉が抜けまくり。それだけ聞いたら全く別の話になっちゃってるじゃない」
 表面では大きく呆れてみせて、内面では落ち着きをなくしていた。
本人を呼んだということではなく、いわば名前という、単語に近い意味合いで口にしただけだし、そもそも好きと言ったのだって告白なんかではない。英は百も承知といった形相で、こちらの反応を観察している感すらある。
子供相手に振り廻されてなるものか、と対策を脳内で組み立てると同時、メインと付け合せが乗ったプレートとスープのカップ、サラダ用の木製の深皿がテーブルに運ばれてきた。図らずも転換の好機訪れる。各自サラダを盛り付けに行ってから食べ始めることとなった。
 英の食べるスピードはかなりのもので、見ていて気持ちのいい食べっぷりだった。暁登とは対照的すぎる。かつて同じ食卓で兄弟が食事をしていたとは思えないほどだ。社会に出てから沈着したのか、もとからなのか。たまには同僚の家族と顔を合わせるのも面白い。
 暁登の仕事時の様子や家での様子を話しながら食事は進んだ。知らなかった一面――もしかしたらこの先も知ることもなかった筈の一面を知っていく。当人不在の情報交換の様相で、暁登にしてみたら不本意しきりだろう。と思うと余計おかしい。



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