揚げたての天ぷらを一口齧る。さくっと軽やかで小気味いい音が耳に届き、柔らかな香ばしさと食材の旨味が口内に広がった。人は、本当に美味しいものに出逢うと、咄嗟には言葉が出てこないものなのかもしれない。口を開けて言葉を発してしまえば、そこから旨味が逃げてしまう、なんて馬鹿げたことでも、ちらりとよぎったり。
 ぎゅっと口を閉じたまま咀嚼する。言葉を出さない代わりに、感嘆の声が漏れる。存分に味わってから飲み込むと、更紗は満足げに息を吐いた。
「うっまそうに喰ってんな」
 隣に座る暁登が、からかい半分呆れ半分で更紗を見ている。どうやら口に入れたところから観察していたらしい。
「こうも美味しそうに食べていただけると、作り甲斐がありますよ」
 カウンターの中で天ぷら鍋の前に立つ店主が、調理の手を止めることなく微笑んでくる。
 二人同時に指摘されれば気恥ずかしさが込み上げるけれど、大袈裟にしているつもりはない。自然とそうなってしまうのだ。
「美味しいんだもん。勝手になっちゃうでしょ」
 なんとも可愛げのない言い返しをしても、暁登の態は崩れない。更に可笑しそうにしただけだ。
 約束の新規開拓にきていた。寿司懐石料理と謳うこの店は、カウンターと4人掛けの個室が二つだけの、こじんまりとした佇まいだ。以前仕事でこの近くに通うことがあり、ずっと気になっていた。懐石とつくからには値段も張るだろうと腰も引け気味だったのだが、店名と噂だけは聞いていた暁登情報によれば、悲鳴をあげるほどではないとのことで決定した。
 お任せコースの価格設定が一番下のを選び、カウンター席に座った。最初の料理が出てくるまでに事情を話し、個室の様子も見せてもらった。店内は隅々まで清掃が行き渡り、過度な調度品はなく、清潔感で溢れていた。
「当たりだな」
「うん、大当たり。美味しいもの食べると幸せな気分になれるよね」
 満足げに更紗が言うと、「単純」と笑われた。
 今食べているコースでも充分に満足する内容だ。下とはいえそれなりの値段なので、個人的にはおいそれと普段使いには来られない。特別な日に、とか、自分へのご褒美に、たまにはいいかもしれない。接待となればこれのひとつ上の価格設定が妥当か。
「記念すべき開拓第1号だよー。なんか嬉しいな」
「上機嫌だな」
「んー、そうだね。あたしは今、機嫌がいいよ。美味しい料理と美味しいお酒と。これで機嫌が悪くなる人間がいるなら連れてこいってんだ」
「酔ってるだろ」暁登は喉の奥で笑う。
「若干ね」更紗はゆらりと首を傾げ、頷いた。
 料理をしっかりと味わう為にビールは止めておいた。炭酸ものはすぐにおなかがいっぱいになってしまう。どうせなら酒類は入れずにウーロン茶でも頼もうかとメニューを覗き込んでいたら、店主から料理に合う日本酒があるとの提案があった。更紗がこれまで飲んだことのないジャンルだ。何を選んだらいいのか見当がつかなかったのと、果たして味が判るのか、といった理由で敬遠してきたのだ。
 奨められるままにそれにしたのには、理由がある。料理人が奨めるものなら間違いがないだろうという読みと、酔っておきたい気分だったという希望と。
 約束だからと暁登と食事するのはいいとしても、二人きりの状況にどこまで平常運転ができるか、まるで自信がなかった。理性を飛ばさない程度に酔えるなら、その方がいいと判断したのだ。まさに単純。日本酒を飲んだことのない人間がどれくらい酔うかなんて、実際試してみなければ判らない。賭けのようなものだ。ということを冷静に判断する余裕が、残念ながら無かった。
 幸い、泥酔には至ってない。料理の味は判るし、奨められたおかげかは判然としないが、お酒の味も愉しめている。ほんのりテンションが上がっているのを自覚できてるレベルなら、良しとすべきところだろう。
「嶋河くんは変わらんねぇ」
「口調おかしくなってきてるぞ」
 暁登は面白いものを眺めているような顔つきだ。うっすらと認識していたがやはりそうか、と思うも、このままでいいか、という気分があっさり勝る。相手が不愉快になっていない、という甘えもある。
「ほんっと強いよねぇ。ざるだよ、ざる。飲んでも酔えない人には勿体無いでしょーが」
 訳の判らない因縁をつけ、暁登の側にあった銚子を取り上げた。手酌する。
 更紗と同じものを飲み、更紗よりも量を飲んでるくせに、顔が赤くなることもなければ酔っ払う兆候もほとんどない。そういえば、普段の居酒屋飲みでも酒に呑まれている姿は見たことがない。
「はいはい。それで最後な」
 暁登は銚子を奪取し、更紗の手が届かない位置に置いた。カウンター内の店主にウーロン茶を頼む。
「けちぃ」
 子供みたいにむくれる。酔ってることが段々愉しくなってきた。
「珍しいよな、南がここまで酔うの」
「酔いたい時だってあるんですぅ。あたしだっていつだって能天気なわけじゃないんですぅ」
 ふわふわゆらゆらした状態が、心地いい。辛い部分の現実から、一時だけでも逃げていられる。
 自らの撒いた種だとは、判っている。いくつもの分岐点を、見過ごしてきたのだ。自分の意志で。ちゃんと判っている。高輝も、梨恵も、悪くない。それでも、感情は割り切れない。
「能天気だなんて誰も言ってねぇっての。卑屈モードオン?」
「うっさい」
 更紗の悪態にも暁登は楽しげだ。嬉しそう、ともとれる笑い方をしている。上機嫌と判断できる状態ということは、暁登もそれなりに酔っているのかもしれない。

 顔を下に向けていると尚更酔いが廻りそうで、更紗はベンチの背もたれに寄り掛かり、夜空を仰いだ。晴天に散りばめられた星が、揺れるように瞬いている。ちかちか光る様は綺麗で、掴んでみたくなる。真っ直ぐに両手を天に伸ばした。
「一人でなにやってんだよ」
 足音が耳に届く。と同時に、暁登の呆れ声がぶつけられた。
 完璧油断していた。更紗がとっていたのは誰も見ていないを前提にした体勢で、確かについさっきまでは周囲に人はいなかったのだけれど、コンビニに行っていただけの暁登が時間をかけずに戻ってくることは、容易に想像がつくというのに。まだまだ酔い醒めやらぬだ。
 見咎められたことが急に恥ずかしくなり、慌てて戻す。勢い余って動いた所為で、自身の躰なのに自制が利かない。前のめりにベンチから落ちそうになった。素早く反応した暁登の手が二の腕を掴んでいなければ、間違いなく両手両膝を地面に擦り付けていた。
 心臓が大騒ぎとなる。危ないとことだった、の純粋な驚きと、掴んでいる手の熱さの所為。



[短編掲載中]