飾り気も愛想もない短文は、暁登からだった。送信主を見そうになり、再びの着信音に携帯電話へと引き戻された。暁登だ。今度は通話の方で、メールは前置きということらしい。
「ちょっと、ごめん」
 通話ボタンを押すよりも先に立ち上がり、店外へと出た。夜気が身に纏い、やっとちゃんと呼吸ができた気がする。
 ボタンを押す。着信が止み、当然相手からの声はなく、通話完了の電子音だけが流れていた。携帯電話を畳む。大きく息を吸って、吐いた。
 短いメッセージは、今この時だけのことを指しているのではない。
 ――あとは任せろ。
 見つめる携帯電話から暁登の声が聞こえた気がする。
 居た堪れなさを、汲んでくれた。きっかけを、くれた。無碍にする道理はなく、抗ってまで残る必要性もなく、厚意をただ素直に感謝する。
 もう一度大きく深呼吸し、ほんの数秒保てるだけの平静を被り、店内へと戻った。席にはつかず、鞄を手にする。何事かと更紗を見上げる高輝と梨恵を交互に見、困った風に笑ってみせた。上司の名前を出し、トラブル対処の為に会社に戻ると告げた。財布を取り出したら暁登に制され、焦る芝居をしつつ辞去した。
 店を出てしばらくは小走りで進み、早歩きとなり、やがて普段よりも遅い足取りで足を前へと運ぶ。何も考えたくなくて、思考は真っ白で、機械的に躰を動かした。気づいたら、非常灯だけが点る薄闇のオフィスにいた。営業部の島に突っ立っていた。ビルの外に溢れている人口光のおかげで、それなりに視界はある。
 苦笑が零れた。なに真面目に会社に戻ってきてんの、あたし。単なる口実なのに。
 馬鹿馬鹿しくて、情けなくて、視界が滲んだ。しゃくりあげるように嗚咽が込み上げ、唇に手の甲を押し付ける。
 着信が鳴った。浮かび上がる名前は、無視できない人物だ。咳払いし、平常の声を意識して、出た。
「……はい」
 声音が沈んでいることの説明は、電話の向こうにいる暁登には不要のものだ。そのことに気配りしなくて済むだけでも、負担はかなり違う。
「平気か」
「…ん、大丈夫」
「どこにいる」
「帰ってるよ、ちゃんと」
 変な言い廻しになった、としかめた時、複合機からFAX受信完了の音が鳴った。考えるよりも先に、指が動いていた。通話強制終了。駄目だ、不自然すぎる。かけ直すとワンコールも鳴らぬ内に出た。
「こっちの電波悪いみたい」
 聞かれてもいないのに先走る。電話口の背後は静かだ。外に出ているのだろうか。自分の背後も静かと思い至り、焦る。先手必勝とばかりに、続けた。
「ごめん。駅に着いたから。またね」
 口早に言い放ち、返事を待たず切る。ついでに電源も切った。お礼を言ってないと気づいたのは、携帯電話が真っ暗に沈黙した後。のこのこと掛け直す気力は無く、明日でいいと勝手に結論した。

 資料室は雑多な環境だ。実に様々な物が詰め込まれている。三方の壁にくっつけて配置されたスチール棚以外にも、部屋の中央にも同じタイプの棚が2列等間隔に置かれ、天井までびっちりと段ボールが並んでいる。中には書類はもちろんのこと、カラー見本や素材といったものが入っていた。インデックスを貼って整理整頓の様相を呈しているものの、中身が添っているかは怪しいところだ。あぶれた書類の束は、人が通れるだけの道をあけて床を占拠していた。
 その奥の奥、壁と向き合う恰好で、更紗は床に座り込んでいた。いずれ整理されるかどうかも疑わしい資料の数々は、ざっくり脇に避け、埃が舞った僅かなスペースに埋もれる。
 一度動きを止めてしまうと、しばらくは動けそうになかった。ひどい疲労感に襲われ、気持ちはぐちゃぐちゃで。こんな状態ではとても表を歩けない。まして電車に乗るなど、奇異の視線を集めるのが関の山だ。
 せいぜい気持ちが凪ぐまでは、ここで落ち着いていればいい。泣きたくなれば泣いたって、どうせ誰もきやしない。独りで悶々とするだけして、また明日から切り替えていけばいいのだ。
「大丈夫ってのはさ、たいてい、大丈夫じゃない奴が口にするもんだよな」
 背後からの突然の声に全身が大きく揺れ、強張る。呆れたような口調には、確かにあたたかみがあって。自分を心配してくれる人の存在に泣きたくなる。
 資料室の照明は点けていない。その代わりに執務室へと続くドアは開けっ放しにして、オフィスからの頼りない光源だけで暗闇の中に身を寄せていた。灯りを点ける気になど到底なれず、室内はかろうじて見える程度だ。今の自分には合っている。
 黙り込む――実際には、返す言葉が見つからずにいただけなのだが――更紗からの返答は、はなから期待していないのか、暁登は続けた。
「移動してんなよ。隠れんぼかっての。けっこう捜したぞ」
 気配が動く。ゆっくりとした足取りで近づいてくる。照明を点けないでいてくれるのは有り難いところだけれど、近寄られるのも困る。拒絶の意も込めて端的に返した。
「頼んでない」
「可愛くねぇ。人の厚意は素直に受け取るってのが可愛げってもんだろ」
 ささやかな抵抗は無視された。真後ろに立ったであろう暁登の気配が、ぐんと近くなる。床に物を置く、軽やかな音がした。少しだけ顔を傾け、見る。箱ティッシュだ。オフィスに常備してあるものだった。
「準備よすぎでしょ」
 思わず噴き出す。自分の笑い声に心が緩む。緩んでしまえば、笑いが次から次へと溢れた。
「笑いすぎ」
 充分に笑った頃に暁登が突っ込んでくる。終息しかけの声を飲み込んで、ティッシュを一枚取り出した。笑いすぎても涙は出る。そういうことにして、目頭を押さえた。
「だって、これ持ってオフィス内うろついてる姿想像したら、可笑しいって」きゅっと空気を呑み、笑いを完全に引っ込めた。「――電話、ありがと。助かった」
「…ん」
 暁登の応対は落ち着いている。笑っていようが、笑いがいきなり無くなろうが、常に対応可能な態勢が窺えた。
「スーツ、汚れんぞ」
 二の腕を掴まれる。しゃがんでいたであろう体勢から、更紗も一緒に立たせようとしていた。
「…いい」
 大きく首を振った。まだここにいたい。闇に沈んでいれば、この気持ちが溶け出して紛れてくれるかもしれない。
「せめて執務室に移ろう」
 再びしゃがみ込んだ暁登の気配は、さきほどよりもずっと近い。ほとんど真横にいる。
「見んな。見たら殴る」
 咄嗟について出たのは悪態口。顔を見られるのだけは絶対に嫌だった。暁登は怒るでもなく、喉の奥で笑った。
「南が口悪い時って、素直に感情出したくない時だよな。照れ隠しだったり強がろうとしたり」
 ばさり、と視界が塞がれた。暁登がつけているフレグランスの匂いが濃くなる。頭の上からすっぽりと、スーツの上着が被せられていた。
「嫌がるもん無理に見ようとする趣味はないから安心しろ」
 上着越しに頭を軽く叩かれた。自身でも驚くほどの強さで、感情が込み上げる。



[短編掲載中]