「ちょっ、やめてくれる」
 払い除けようと動いて、上着がずり落ちそうになる。更紗が掴むよりも早く、被せ直された。ばつが悪い。
「優しくすんな」
「ここで優しくない奴って人としてどうよ。甘えさせてくれるってんだから、甘えとけ」
 甘い甘い誘惑だ。抗うのは簡単じゃない。弱っている心では尚更で。
 わずかに残る理性を掻き集め、己を叱咤した。
「あたしの今の状況で、嶋河くんに甘えるってことはさ、優しさを利用するってことでしょ。そんなの、」
 要らない。――そう突っ撥ねたかったのに、声にならない。本音では、誰かの優しさに寄り掛かってしまいたくて。慰めてくれる手を、握り返したい。
 弱った心に優しさは麻薬だ。しかも相当毒気の強い。継続されてしまえば、依存が深くなる。抜け出せなくなる。
「ていうかさ、俺、ちょっと嬉しいんだよな」
 何故いま、この場面でその単語なのだ。
 問い返す為の声は、ぎゅっと唇を噛み締めていた後遺症で出てこない。
「口が悪くなれる相手に、俺もなれてるってことだよな。今までは気を許した相手、俺の知る限りでは、楠木だけだった。ずっと、羨ましかった。線を引かれてない相手に、なりたいって思ってた。だからこの前も、酔ったところを見せられるくらいに気が置けない相手になれたのかなって」
 まさにその通りで。だからといって、素直に肯定もできない。相手は自分を好きだと言ってくれてる人。その想いに応えられる覚悟もないままに、期待させるようなことは言えない。
「ほんと、やめてくれる。今優しくされたくない。しないでよ」
 こんな、泣き声そのもので言うなんて、卑怯だ。だけどどうしようもない。
「隙作って付け入ろうとしてるだけだし?お互い様ってやつだろ」
「普通そこまでぶっちゃけるかな」軽口につられ、軽い語調が飛び出した。笑ってしまってさえいた。「ほんとあいつ馬鹿。鈍感すぎ。人の気持ち勝手に決めんじゃないよって感じ。最低。むかつく」
「でも嫌いになれない」
「……うん」
「むしろ好きだし?」
 暁登は会話を楽しんでいる風ですらある。一貫された態度が心地よく、ほのかに心が楽になっているのを自覚した。あれほど闇に溶けてほしかった重さが、軽くなっている。
「嶋河くんってさ、偉いよね。周りから固めちゃえばあたしが逃げられないかも、とか思わないの」
 たった一言で済むのだ。たった一言、自分の好きな人を、高輝に伝えればいい。
「あいつを好きなまんまでいいとは言ったけど、南の意思で俺んとこきてほしいからな。逃げ道塞ぐのなんて簡単にできるよ。でもしない。そこに南の意思ないじゃん。けっこう重要よ、それ」


◇◇◇


 物腰は常に柔らかく、誰にでも丁寧口調。怒鳴り散らしていることなど見たことはなく、不機嫌なんて単語すら彼の辞書には未登録ではなかろうか。表面だけをさらえば、そう評せる。ただ、怒らないわけではない。喚かないだけで、静かに、時には微笑んで窘める。必要があれば何時間でも、一定のトーンで諫言し続ける。そして、こと仕事絡みでは、こうと決めたら理路整然と相手を説き伏せ、意見を通す。見た目も雰囲気も柔和なくせに怒らせると怖い、というのが社内の人間には周知の事実。
 それが更紗の務める会社――リタ・デザインオフィスの社長、有田の人物像だ。あくまで更紗の主観ではあるが、大多数の主観でもある。
 小世帯構成の会社とはいえ、更紗のような末端平社員では社長と直接対話する機会などそうそう無い。まして、上司の同席もなく社長に呼び出されるなど。
 社の損失となる大きな失敗をしたことは、記憶を探る限り見当たらない。上司からの注意喚起をもらう程度の失敗で、社長が出張ってくるとも考えにくい。
 だとすれば、現況はなんだ。
 社長室に呼ばれ、応接セットに向かい合って座っていた。何かやらかしただろうかと、社長と対峙しながら思考を巡らせる。更紗の営業の仕方を快く思わない人が、社長に直訴したとか。無い、と言い切れないのが悲しい。
 社長の表情から読み取ろうにも、常と変わらない柔和な笑みを湛えているだけなので不可能。いい話なのか悪い話なのかすら、判断できない。
 なるようにしかならない。肚を括ったのを読み取ったかのように、有田が口を開いた。
「どうですか、南さん。仕事の方は」
 どうと問われても、と言える筈がない。これは何かの試験なのか。訝しみをおくびにも出さず、真摯な態をとり続けた。
「だいぶ慣れてきたと、自負しています。周りから見れば、まだまだかもしれませんが」
「楽しいですか」
 社長という立場の人間から、よもや楽しいかなどと問われるとは。一瞬面喰らい、すぐに持ち直す。この社長相手に下手な駆け引きや勘繰りはしない方がいい、というのが先輩たちの常からの助言だ。
「楽しいです」
 そうですか、とにっこり微笑む。満足げにも映る。この笑顔をそのまま信じてもいけない、という教訓も心得ている。
「営業の基本は身につきましたか」
「基本、ですか。…ついたかと、思います。きちんとできているかは、自分では判断できません。やっているつもりですが、周囲からの評価が同じとは限りませんので」
 有田はひとつ頷くと、脇に置いていたクリアファイルから書面を一枚抜き出した。ソファに腰を降ろした時から気になっていたものだ。思わず凝視し、こくりと空気を呑み下した。更紗に見えるように、テーブルに置かれる。
 書面の表題に瞠目し、慌てて短い本文に目を走らせた。更紗が読み終えるまで充分に時間を置いて、有田は言った。
「営業兼デザイナーとして、行っていただきたいのです」



[短編掲載中]