「デザイナー、ですか」
 書面の中身もさることながら、有田の口から飛び出した単語に驚く。まじまじと有田を見つめ、ついと視線を落とした。書面は英国への転勤辞令書。日付のみ空白で、まだ正式発令ではないということだ。
「そうです」
 存分に間を開け、有田は首肯した。論を俟たないといった様相だ。顔を上げる。端然とした有田に、冗談を口にしている素振りはない。社長自ら辞令書を作ってまで人をからかうとは思えないのだけれど。
「本気ですか」
 真っ直ぐに見つめる。そこに真意を汲み取りたかった。
「ええ」
 対する有田も真っ直ぐに射抜いてきた。やっぱり戯れは感じられない。
 やる前から白旗を上げるのは主義に反する。でも、これは仕事なのだ。自信と不安の比率が大きく差をつけているのなら、社会人としてきちんと伝えるべきだ。
「無茶です。今は実技に全く触れていませんし、それに、」
「私はね、南さん」有田は、予測がついていたとでも言うかのように遮った。「人を見る目には自信があります。営業部への異動は見込んでのことでした」
「買い被りです」
 辞めることも考えた。辞表だって書いた。社長の構想通りにいかなかった可能性だってあったんです。そう言ったら、目の前のこの人は何と返してくるのか。
「そうでしょうか。間違っていたとは思っていません。最初から見据えての決断です。さきほど南さんは自己評価が周りと同じかどうかは判らない、と言いましたね。私は第三者です。周りからの評価、ということになりますよね。期待通りに成長してくれたと、思っていますが」
 唐突な賛辞に、戸惑う。整理するから待ってほしいと願うように、ゆるゆると頭を振った。
 デザイナーとして、棄てられたのだと、思っていた。辞さずにずるずると居座り続けることも、お見通しだったのか。結局は営業としても面白い部分を、知ってしまった。自分は巧く掌で転がされていただけだったらしい。
 腹立たしさは、無かった。
 有田同様に、周囲の評価も同等だとするなら、嬉しいとすら思える。
「自信ありませんか」
「…判りません。あまりにも突然のお話なので」
「そうですよね」
 頷く。気持ち察します、とでも言外にありそうだ。
「何故あたしなのでしょうか」
 他にも適任者はいると思います、とは呑み込んだ。
 穏やかで柔和な空気を背負っていても、内実はシビアな思考の持ち主だ。表面に騙されてそのままの人物像と油断すれば、痛い目に遭う。弱気な発言ばかりを繰り返す社員に、いい印象など残る筈もない。ましてや、辞令にあれこれ意見するなど、普通は有り得ない状況だ。
「南さんは自己過小評価にすぎますね」有田は苦笑した。「畑違いになった途端、駄目になってしまう人っていますよね。人それぞれ、得意不得意はあります。適材適所を見極め導くのが、上に立つ者の役目と考えています。ひとつの畑でのみ能力を発揮する者には、それを最大限に伸ばせる環境を用意してあげるのが義務です。一方で、複数の畑でもすくすく育つ人材はいます。会社にとって、より貴重な人材です」
 器用貧乏な人間を巧く使えば会社の益になるってことですか。とひねくれても、当然口にはしない。
 有田は内心を読んだかのように、首を横に振った。
「私は社員を都合良く使える駒としてみたりはしませんよ」
「そんなことは…」思ってもいません、と濁す。
「日本を離れられない理由があるのでしょうか。女性ですから年齢的なこともありますよね。一度行けば数年は戻って来られないと思います。結婚のご予定とか、ありますか」
「社長、それはセクハラ発言です」
 更紗自身は今のところ、引っ掛かりを覚える単語ではない。親族関係からの小言は増えつつあるけれど、右から左だ。
 有田は片眉を持ち上げた。意に介した様子はない。
「セクハラの定義は実に曖昧です。受ける側の尺度によるところが大きいですから。こういう解釈でいると、まずいでしょうか」
「受ける側次第だからこそ、怖いんです。一般的には、定義に入ってるみたいですよ。不愉快に思って訴えられるなんて話を、耳にしたことがありますので」
「これからは気を付けることにします。南さんは不愉快でしたか」
「別に気にしません」
「安心しました」にっこりと微笑み、表情を引き締めた。「じっくり考えていただけませんか。男性なら有無を言わさずも可能ですが、女性の場合は色々絡みもあるでしょうから。おっと、これもセクハラになってしまいますか」
 うっかりしていました、と笑う。
 掴みどころの無い人ではあるけれど、社員と共に進んでいこうとする姿勢は、普段の有田を見ていれば真実と映る。おそらく、更紗に語った評価も、偽りはないのだろう。人材を育てる気概は信じられる。
「いえ。お気遣いありがとうございます」
 つられるようにして笑ってしまった。



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