結局、送別会はしなかった。出立日も知らせていない。着任の挨拶はメール一斉送信で済まそうと考えている。その他大勢と同じ扱いだと、また拗ねるかもしれない。
「中、入ろっかな」
 独りごちて立ち上がる。ぼーっと座ってるだけなら搭乗口付近でも変わらない。
「黙って行くつもりだったのか」
 びくりと肩を揺らす。人の気配などそこかしこに溢れている。いちいち気を払っていなかった油断と、知り合いはこないという思い込みから、驚いてしまった。
 身近な人物の登場に、僅かながら気が引き締まる。声音は怒ってる風には感じられなかった。
 ゆっくりと振り返る。対面した時、まるで暁登は初めからこの予定だったのと、錯覚しそうになった。それくらい、自然体だった。
「見送られんの、苦手なんだよね」
 手荷物をベンチに置いた。預けた荷物が迷子になることもあるので、数日分の身の回り品は持ち込みにしている。その為、けっこうな重量となっていた。置くことで、ちゃんと向き合いますよ、という意思表示にもなっている筈で。
「みずくさいよな」
 暁登の語調は変化なく、爽やかだ。嫌味的なものは少しも含まれていない。
「だね。ていうか、もろ勤務時間中なんだけど」
「だな。市内NRって書いてきたから問題無し」
 さも当然のように答える。ちなみにNRはノーリターンの略。時間を気にせずここにいられると明言しているも同然だ。
「あたしね、社長と直上司くらいにしか出立の日、言ってないんだ」
 周囲には後日を出発日と伝えていた。よもや会社関係で見送りがあるとは一人を除いて考えられなかったものの、ただ一人に隠したいのなら全体に嘘をつく方が間違いがない。
「見送られんのが苦手だからな」暁登はからかうように言う。
「そうそう。…じゃなくて。誰に聞いたの」
 上に日にちを伝えたのは業務に関わるからで、転勤準備の為に数日の休みを取っていた。諸手続きは意外と多く、仕事をしながらでは対応しきれなかったからだ。
「大方、着任するまでは、とかお願いしたんだろ」
 さすが、お見通し。
 こちらでの業務引き継ぎはきちんと完了させているし、有休利用なのだから仕事に支障がなければ会社側が否と言う権利はない。
「うるさく騒ぐ奴の心当たりがあってさ、嫌だなぁと思ってて。上司だろうが社長だろうが、お願いしてみるもんだよね。支障ないって明確だったから快諾だったよ」
「そーゆうの、社長好きそうだしな」
 社長は、デザイナーとしての働きをすると、子供みたいな一面を見せることが間々あった。ちょっとした悪戯をして楽しんでいる姿を見かけたことも、何度かある。
 高輝が聞きつけたなら、騒ぐと予測はつく。更紗と高輝の賑やかな遣り取りは、社内でも知られていることだ。社長にさえも。だから更紗の申し出を、意地悪な心根で便乗した可能性は充分にある。
「好きそうだよね。…でもなくてさ」
 暁登は、さきほどからの乗り突っ込みを楽しげに受けている。みずくさいと言うわりには責める響きはなく、普段通りの態だ。高輝ならこうはいかない。どうして話してくれなかったと騒ぐ。そして盛大に拗ねる。
 目の前のこの人は、何も言わなかったな。と思い返す。
 社長に呼び出されたことを尋ねてはきても、内容は聞かなかった。敏感に嗅ぎ取っていた筈なのに。正式辞令がふれまわった時も、特に何かを言われた記憶はない。行くのか、とも、行くな、とも。
 もしも。
 ひどく自惚れた仮定だけれど、もしも「行くな」と暁登から言われたら。自分はきっと迷った。それくらい彼の存在が、無視できぬほどに大きくなりつつある。言われていたならきっと、もっとぐずぐず揺れていた。機微に敏感な人が自分を想ってくれている心地よさも、楽であることも、知ってしまった。
 だからこそ、きちんと考える余裕をくれたことに、感謝する。
「昔の彼女がな、航空会社勤務なんだ。調べるの、けっこう簡単らしいぞ」
「は?」
 暁登には見事なまでに悪びれた様子はない。どこまで本気なのか、疑わしい。
「だから、航空会社に勤める元カノに、」
「それは聞いた」ぶった切って、据えた斜視を送った。「そーゆうの、情報漏えいってんじゃなかった?個人情報保護法違反で訴えようか」
「面白いぞ、南」
 喉の奥で笑う。本当に楽しそうにしている時の笑い方だ。――不意に、この笑顔もそうそう見られなくなるのだな、と思う。浮かびくる感情は、寂寥とした思いで、驚く。
 このまま、もうしばらくだけ近くにいたなら、あるいは違う心境が芽生えていたかもしれない。だけど、後悔はなかった。現実にはこのタイミングで転勤の話があって、自分の意思で選択した。最良だと信じられる方を。自分は、最善の答えを、選んだのだ。



[短編掲載中]