「しゅ…種目は?」
 平然を装ってみたけれど、思いの外声が震えていた。
 良尚は華保の様子に気づいていないようで、安心する。
「高跳びだよ」
 さっきまでの柔らかく懐かしい記憶とは正反対の温度にある記憶が、胸の痛みを引き起こした。膝の古傷が、連鎖反応する。
「あ…そう、なんだ」
 目一杯震えを押し殺して、どうにか相槌をうった。けれどそれ以上は、鼓動が邪魔をして普通に話せる自信がなかった。
 情けない。まだ、こんなにも囚われている。欠片も、吹っ切れていない。
 唇をぎゅっと引き結び、それとばれないようにそっと深呼吸すると、立ち上がった。
「あ、たしっ、そろそろ行くねっ」
 華保に続いて立ち上がっていた良尚は、屈んで顔の位置を揃えた。間近に顔があって、咄嗟に仰け反ってしまった。
「平気か?」
「へ?あ、なっなにが?」
 動揺しすぎだ、と内側の冷静な部分が諌めても、騒ぎ立てる心臓にいうことをきかせるなど無理な話。
 言葉の処理能力が著しく低下していて、考えるまでもなく、体調を気遣っての問い掛けだということすら、判断できなくなっていた。心臓が、うるさい。
「なにが、ってことないだろー」
 面白い奴だな、と笑う。
 よく笑う人なんだな、とぼんやり思う。あの頃の「尚くん」だ、と。
 再会はあんな形で、お世辞にもスマートとはいかなかったけれど、昔の知り合いに逢えたというのは、素直に嬉しい。
 良尚は、まじまじと華保の顔を観察した後、「うん、大丈夫そうだな」と太鼓判を押した。
「では、行きますか」
 ふざけて紳士な笑みを浮かべると、優雅な動きでドアを開けて「どうぞ」と促す。ジャージ姿で紳士の所作を真似られても冗談にしかならないが、礼儀として受ける側も淑女の真似事を返しておいた。


 廊下に出ると一気に人の気配が増えた。ここにいる全員が、常に前向きでいられるほど楽な場所ではないけれど、活気はいつでもそこにある。
 施設全体の雰囲気を良い方向へと導くのも私達の仕事ね。とは、母の言葉だ。彼女はここでの仕事に誇りを持っている。ここにいる職員の誰もが、誇りを持って働いている。
 だからこそ、こんなハードな職務をこなせているのだろう。
「都さんに用事だったの?」
「俺が、じゃなくて、姉貴が。人使い荒いんだよ、あの人」
 心底辟易した口調をとるのに、本気で嫌がっている風ではなかった。似た者姉弟だ。
「優しいんだ?尚くん」
 思ってもみなかった問い掛けだったらしく、ぼん、と音が聞こえてきそうな勢いで顔面が赤くなった。
「へ、変なことゆーなって。そっ…それよかさ、その、尚くんての、止めてくんない?ガキくさい」
 坂道で会った時には対処の仕方とかむすりとした表情とかで年上にも見えていたけれど、こうして話してみると同じ歳なんだなと妙に納得がいった。
 充分ガキくさい歳じゃないか、とは内心だけで突っ込んでおく。
「良尚でいいよ。俺も華保って呼ぶし」
 矢継ぎ早に言い放ち、微妙に視線を宙に泳がせている。さらりと言った風を装っているだけなのがばればれで可笑しい。
「呼び捨て?」
「そう。呼び捨て」
「判った。この後は?帰るの?」
 ロッカー室を出てから何の気なしに歩き始めたのだが、向かう先には玄関もある。それぞれの目的場所は異なっていたけれど、方向的には揃っていたらしい。
「その予定。華保は?」
 軽やかに快諾したものの、うまく名前で呼べる自信が華保にはなかった。対して良尚は自然に名前を口にする。こんなことぐらい、慣れたものなのかもしれない。と思い直してみる。
「あたしはここに用事があったから。夢の第一歩をここで学ぶの」
「夢?」
「理学療法士を目指してるんだ。母親がここで働いてて、勿論今はまだ実務には携われないけど、雑務手伝いながら現場の空気を学ぼうと思って」
 専門の学校へ行き出したら、嫌でも知識は勉強で詰め込むことになる。研修で実地を学ぶことにもなる。それらとは別に、知っておきたかった。
 いいことも辛いことも、現実を感じておきたかった。己に自覚させる為にも。
「今日は本当にありがとう。時間とらせちゃってごめん」
 正面玄関のホールに辿り着き、申し合わせたように歩みを止める。
「気にすんなって。じゃあ、またな」
「うん、また」
 次もあるよね、という別れ方をしたところで、実際は会うこともないのかなと予感はあった。
 華保はこれからここに通うことになるが、良尚は違う。たまたま来ただけ。
 次がそうそうあると期待してはいなかったが、あってほしいと願っている自分がいることに、少し戸惑う。
 たぶんこの気持ちは、小さい頃の期間限定の友達と、ゆっくり話がしたいだけなのだ。
 去っていく背中が見えなくなるまで見送ろうと場に留まる。顔が判別できない距離まで離れた場所で一度立ち止まり、良尚が振り返った時には驚いた。向こうも、華保が留まり見送っていたことに驚いた様子で、互いに噴き出す。
 そんな些細なことに浮足立つこの心地は、なんなのだろう?


[短編掲載中]