「華保ちゃん、もう大丈夫なの?」
「――都さん」振り返していた手を慌てて引っ込め向き直る。「あ、はい。大丈夫です。今から行こうとしてたんです」
「尚は帰ったの?」
 ついさっきまで華保が見ていた方向を覗き込むようにして見る。都は含蓄顔だ。華保の下手な誤魔化しなどお見通しらしい。
「帰りました、ね」
 悪戯が失敗してばれた時の子供みたいな心境になった。何となく気恥ずかしい。
「そう。じゃあ、行きましょうか」
 都はさして頓着せず、華保が向かおうとしていた方向へと歩き出した。一歩遅れて動き出し、都に追い付くと並んで歩く。
 都の手には薄手のファイルが抱えられていて、それが患者のカルテであることは知っていた。
「これから対面する子ね、華保ちゃんに担当してもらうわ」
 手にしていたカルテを見える位置まで掲げる。
 きょとんと都を見遣る。「担当、ですか?」
「勿論、資格がないわけだから正式な、とはいかないんだけどね。私の補佐役ってことで付いてもらうわね。その方が遣り甲斐あるんじゃない?」
 センターで手伝いをする、と決まっていても具体的なことは何一つ知らされず決めずで今日を迎えていた。いわば雑用係みたいなことをするんだろうな、と漠然と考えていただけに、都の言葉がすぐには理解できない。
「軽度の患者さんでね、通所でここにきているの。実際に実務は携われなくても、近くで見ているだけでも勉強になると思うわよ?担当ってことにしとけば、べったりくっついてても文句言われないだろーしね」
「あ…ありがとうございますっ」
 心遣いが嬉しかった。
 都は、華保があの闇から抜け出すのに手を差し伸べてくれた。抜け出した後も、ずっと気に掛けてくれていた。自分以外の誰かが、自分を気に掛けてくれているというだけで、どれだけ救われるか。
 新たな目標を見つけた華保のことを、まるで自分のことのように喜んでくれた。そして今、それを叶える為に、できうる限りの協力をしようとしてくれている。
 かけがえのない出逢いをしたのだと、こういうことがある度に感謝する。


 理学療法室に辿り着くまでに担当する患者の概要を教えてもらった。
 名前は蕪矢倖汰、八歳。
 上腕骨の骨折でリハビリが必要となった。彼の年齢では最も多い怪我だ。センターに通い出してからも経過は良好で、治療完了の目処はたっているらしい。
「頑張り屋で元気な子ね。人懐っこい子だから、すぐにでも仲良くなれると思うわ」
 ぱたんとファイルを閉じ、華保に渡す。正式ではないとはいえ、初めての担当患者だと思うと気持ちが昂ぶった。
「都さんっ!」
 前方からで、見遣ると理学療法室の出入り口に立っている少年を見つけた。
 都と目が合うと一瞬嬉しそうにしたのに、次の瞬間には意識して表情を引き締めた。むっとした風にして、近づいてくる都を待ち受けている。
「遅いよっ」
「ごめんごめん、って、ぎりぎり間に合ってるわよ?」
 毎度のことなのか、都は軽やかに少年の作られた不貞腐れ顔を流し、ほらと腕時計を見せた。秒針がかちりと動く。
「ほんとにぎりぎりじゃないか」ぷう、と膨れた頬が子供らしさを象徴していた。「この人は?」
 隣に立つ華保に視線を転じる。
「紹介するわね。こちらが蕪矢倖汰くん」
 都は華保を見つつ、掌を上に向けて倖汰の方を指した。それから、と手を華保の前まで移動させ今度は倖汰に視線を移す。
「舞阪華保です。都さんの補佐で、倖汰くんに付くことになったの。宜しくね」
 都が言う前に自己紹介する。目の高さを合わせて前屈みになった。
「と、いうことだから。さっそく始めよっか」
 華保と倖汰、同時に元気よく、頷いた。


[短編掲載中]