そこが病院だということさえ気が廻らない状態で、鉄の扉を押し開け飛び込むと同時に捜していた人物を認め、大声で名前を呼んでしまった。こだまするように奥へと響いていく。
 とっくに診察は終了した時間帯で、正面の出入り口は閉鎖されていた。救急応対の裏口から入ると、人気のない照明を落とした廊下に、周囲の仄暗さに同化した表情の都がいた。
「よ、良尚っ…は!?」
 人よりは遅いが華保なりの全速力で辿り着いてすぐでは息がきれる。おまけに、息つく間もないままに都と揃って病室へと向かうのでは、言葉はどうしても切れ切れになった。
 都は華保の脚を気遣いながらの速度で誘導する。
 扉を開けて真っ先に見つけた都の表情で、思考は後ろ向きにしか発展しない。
 ほんの一時間前、都から連絡を受けた。動揺しないでね、と前置きした都こそ動揺が隠しきれずにいて、背筋が冷えるのを感じた。
 脚がもつれて転びそうになるのをどうにか堪える。無茶な動きに驚いた左膝が警告を放っていたけれど、構ってなどいられなかった。

 清潔なシーツに包まれたベッドで眠る良尚の顔は平穏そのものだった。
 手術後の麻酔が効いている状態なだけで、布団からのぞく腕や顔のいたるところに、血の滲む手当ての痕がある。
 脚はギブスに固定され吊るされていた。
 勧められた椅子を、首を横に振ることで拒否する。頭の中が真っ白で、ただただ良尚の寝顔を凝視していた。
「華保ちゃん、いいから座って」
 小さな子供を叱る口調で都は両肩に手を置き、重力方向へ力を入れる。些細な力が加えられただけでいとも簡単に、華保は膝から折れた。カタカタと音がして、それが自身の脚の震えからくるものだと判り、悔しさが込み上げる。
 情けなくて、泣きたくなって、ぎゅっと唇を引き結んだ。
 どう足掻こうと、震えは止められない。
「ごめん、なさい…」
 考えるよりも先に口にしていた。この事態を招いた原因は、自分にある。都が問い掛けようとするのを、見ないようにした。
 雨でスリップしたバイクは運転手を放り出して横滑りし、良尚に直撃した。一番酷い怪我をしたのは、脚だった。
「ごめんなさい。あたしの所為、です。あたしが…」
 何故華保がそう思うのかを、都は知らない。知らないからといって、元凶ではないと決めつけられない。
 帰り際、引き止めたりしなければ。数秒のずれが、招いた悲劇。
 泣いてどうにかなるものではないのに、泣いていいのは自分じゃないのに、止められなかった。
「跳べなくなるなんて、ないよね?絶対、ないよね…?」
 祈るように指を組み、白くなるほどに力を込めた。手の甲に爪が喰い込む。そうすることで震えを止めたかった。涙を、止めたかった。

 同じ運命を辿ってほしくない。
 あんな想いをしてほしくない。
 ――けれど、事態を招いたのは他でもない、この自分だ。

 不意に意識を周囲に戻すと、都の姿はなくなっていた。
 部屋を後にする時に声をかけて行った可能性は高いが、全く記憶にない。
 静かな寝息だけが室内に満ちていた。ここに着いた瞬間は、生きていてくれたことに対する安堵と、己を責め苛む気持ちが綯い交ぜだったのだが、良尚を見つめているうちに後者が勝る。
 同じ空間にいることがどうしようもなくおこがましく感じられて、逃げるように廊下へ飛び出した。
 弱さしか残っていない自分。強くなりたいと願うくせに、すぐに逃げ出してしまう自分。
 最低…!
 良尚に笑ってもらえる権利なんてない。
「華保ちゃん?」
 びくり、と肩を揺らす。おそるおそる首を巡らせ、都を見た。困ったように寂しそうに、都は顔を曇らせた。
「話、しよっか」
 頷くことも首を振ることもできなかった。促されるままにロビーまで歩き、長椅子に並んで座った。
 人の存在は皆無で、吹き抜け構造のロビーは開放感で寒々としていた。一つの物音がどこまでも響きそうだ。灯りと呼べるものは非常灯だけだった。
「脚は大丈夫?」
 柔和な声に、鼻の奥がつんとした。暗闇から救い出してくれた時と同じ声色。
 こくん、と頷く。
 本当のところを言えば、判らなかった。感覚がなくて、ともすれば脚が無いのではないかと疑いたくなるほどだった。
 ただ、膝に置いた手で、震えが止まっていたことだけははっきりしていた。
「それなら良かった。でもだいぶ無茶したでしょう?あとで看てもらいましょう」
 気遣われるのは、ひどく居心地が悪い。
 華保が放った謝罪を聞いてなかったわけではない筈だ。思い当たる節があるからこそ、出てくる言葉。弟を事故に遭わせた原因を作った人間に対して、こうも鷹揚になれるものなのだろうか。
 過去に何度も救ってくれた優しさが、今は痛かった。いっそ糾問され、詰られた方がましだ。
「都さん…」
 搾り出すようにして発する。これ以上優しさに触れてしまったら、もうどうしていいか判らない。
 目を合わせることができなくて、足元ばかりを見つめていた。
 隣で小さく息を吐くのが聞こえた。
「見かけによらず、華保ちゃんって頑固よね」
 え、という声さえも、驚きのあまりでなかった。思わず都の方に間抜け面を晒す。予想の範疇を軽く超えていた。
 穏やかな、普段通りの空気を纏った都は、ゆるりと微笑んだ。
「先生と話をしてきたの」
「…はい」
 自然背筋が伸びた。都の穏やかな声音の中に真剣な色が混ざって、心がざわつく。
「話しても、いいかしら?」
「……はい」
 当人よりも先に、他人である自分が聞くということに気後れがないわけではない。ただ、都の持つ分別を考えれば、華保が聞くべきことなのだと認識せざるを得ない。
「大体の察しはついてると思うんだけど、脚の回復に一番時間がかかるそうなの。リハビリも当然必要となってくるでしょうね。ここを退院したらセンターに移ることになるだろうけど、担当は私がすることになるわ」
 やはりと思うと胸が潰されそうになった。膝の上で握り締めた拳を睨みつける。掌に爪が喰い込み、痛みを感じることで泣きそうになる弱さを押さえ込んだ。
 相槌を打つことも忘れて耳を傾ける。
「リハビリをちゃんとすれば、普段通りに歩けるようになれるわ」
 頑丈に育ったし結構根性据わってるから尚ならやるわね、と軽口を続ける。
 それは華保の負担にならないように、婉曲なものだと判る。このまま都の言うことだけを聞いていれば核心に触れずにいける、ということも。
 奥歯を噛み締め、ばっと顔を上げた。正面きって対峙する。
「教えて下さい」
 この優しさに甘えてはいけない。目を背けていてはいけない。
「良尚の脚は、元通りになりますか?フィールドに、還れますか?」
 華保がそれを聞いたからといって、苦しみを味わうのは良尚で。何の助けにもなれないことも、自分が無力なことも知っていた。
 謝って許されることではないことも。
 それでも知りたかった。知っておくべきだと思った。
 微塵の躊躇いもなく、都は答えを紡いだ。
「諦めた方がいいわ」


[短編掲載中]