怖いくらいに凛とした声だった。審判を下す裁判官のように、明瞭とした音。
「嘘…」
 信じたくない。そう強く拒絶したかった。したところで意味が無いことを、知っていながらも。
「歩けるようになる、といっても、運動能力は落ちるの。全くの元通りになれる確率は極めて低い。それを陸上するまでに、というのは無理ね」
 華保が知ろうとするのであればオブラートには包まない、ということだろう。包まないが、隠し事をしていることに気づいてしまった。
 それを咎めるつもりはなかったが、じっと都の瞳を見つめた。
 都はそっと息を吐く。
「鋭いわね、華保ちゃん」僅かに肩を竦め、表情を引き締めた。「神経が傷ついているみたいなの」
 さらりと放たれた言葉はひどく重く、巨大な鉄の塊を投げ付けられた衝撃を心に受ける。ことの重大さを判っているからこそ、とられた都の態度は功を奏さない。
「跳べ…ない……?」
 自失茫然と呟く。重みを伴って床に転がった。
 口に出すことで現実を帯びそうで怖かったのに、口に出したことで否定をしてほしかった。
 誰でもいい。嘘だと言ってほしかった。
「すみません…。俺…」
 沈黙が落ちた瞬間に滑り込んできた別の声。ぎこちなく首を巡らせ姿を確認する。
 顔や腕にガーゼをあてた少年が、おず、とした感じで立っていた。
 病院なのだから怪我をした人がいたとしてもおかしくはない。けれど全く見ず知らずの人がこんな時間に、暗い面持ちで自分達を見つめているのは奇矯だった。
 切り替え早く立ち上がった都は「なんでしょうか」と応じる。
 少年は泣きそうなくらい表情を沈ませていた。近づこうとはせず、まるでそこに結界があって、それ以上は踏み込むことができないのだというように、立ち尽くしている。
「事故に遭わせたの…俺なんです。本当に、すみません。俺…どうしたらいいのか…」
 腰から身体を折って、深く頭を下げる。床に声をぶつけながら、頭を上げる気はないようだった。
 間が開き、それを埋めるようにして都は一歩近づいた。
「貴方は無事なの?大きな怪我はない?」
 思ってもみなかった反応だったのだろう。がばりと顔を上げ、目を見開いている。
「あ…はい。俺はかすり傷程度なので…」
 罪悪感からか、歯切れが悪い。
 華保はその後ろめたさに同調していた。同調し、心が暗く沈む。
「それなら良かった」
 都は微笑んでさえいた。
 裏に本心を隠しているのではない、本音で安堵した顔つきだった。
 向けられた方は、完全に戸惑い混乱していた。華保が彼の立場でも、同様の反応を示しただろう。
「不運だった。それだけよ」
 いっそ清々しいほどに断言する。相手を気遣って、少しも気に病まないように。
 真っ直ぐに少年と対峙して、少年に向けてはいたけれど、都は同時に華保の肩に手を置いた。彼に向けているけれどこれは貴女にも当て嵌まるのよ、と伝わる。
「早く、休んだ方がいいわ。今はなんともないと思ってても、後遺症はあとから出るものだから」
「でもっ…、せめて目が覚めるまでは、」
 都の口調が人払いの為のものではないことは、向けられた本人にも判っていただろうし、都の性格を知っている華保にも判っていた。だからといって素直に受諾できるわけはないのだろう。
 緊迫感に押し潰されそうになっている、ように見えた。
「貴方、お名前は?」
 食い下がる人を相手に、都はどこまでも冷静に対応する。そうすることでこの場の空気を鎮静させようとするみたいに。仕事で培ってきた、あるいは自然と身についた技法と呼べるもの。
 遮ってまで問われたのが自分の名前であると彼の中で処理が追いつかなかったらしく、一瞬呆気にとられ、慌てて綴った。
「渡仲要、です」
「渡仲くん、弟はいつ目覚めるのか判らないし、もう遅いわ。それと、これはお願いなんだけど、あまり罪悪感に囚われないでほしいの。難しいだろうけれど。尚は、貴方が気に病むことを気に病むような人間だから。責任を感じすぎないでほしいの」
 故意の事故でないのなら、貴方もまた被害者なの。そう言いたいのだろうか。
 都の言うことは理解している様子だが、感情は別物だ。離れ難いのは容易に見て取れた。
「渡仲さん!」
 また別の声が割り込む。思わず、といった感じで大きくなったその声は廊下を響き渡っていった。三人に揃って向けられた視線で思いの外音量があったことに気づいたらしく、気まずさを滲ませつつ看護師が駆け寄ってきた。都と華保に一礼し、渡仲要の傍で立ち止まる。
「渡仲さん、まだ検査の途中です。抜け出さないで下さい」
 諌めを帯びつつも、無事見つけられたことに安堵した様子だった。怪我の無い場所なのだろう。腕をがっと掴むと有無を言わさず引っ張っていく。歩き出す直前に再び都と華保の方を見て一礼していった。
 半ば引き摺られるようにして看護師に従う渡仲要は、顔の前面をずっと二人の方に向けていた。思いっきり振り返る格好になったまま行ってしまった。
 人の気配が遠ざかり、再び二人きりになる。茫然と見送っていたそのままの姿勢で、都はぽつりと声を落とした。
「そーゆうことだから、華保ちゃん」
 常の穏やかな声で、そこに含まれる真意を汲み取ってしまう。身体の奥から感情がせり上がって、喉が詰まった。返す言葉が見つけられなくなる。
 俯いて両手で顔を覆う。込み上げる嗚咽を必死に押さえ込んだ。泣いていいのは、自分じゃない。
 肩に触れる都の手がひどくあたたかく、辛かった。


[短編掲載中]