いったん家に帰って入院に必要なもの揃えてくる、と言って都は病院をあとにした。
 残っていたいという華保の気持ちを汲んでか、華保が懇願するよりも前に、すぐ戻るからいてくれると助かるんだけど、と言った。
 すでに華保の母親には連絡済で了解をとってあるというから、先見の鋭さに尊敬の念を抱かずにはいられない。
 そして、気持ちを優先してくれたことが、何より有り難かった。
 蛍光灯を灯さず薄闇の病室内を満たすのは、先ほどと変わらない規則正しく繰り返される寝息だけだった。外の雨は音も無く、静かに降っている。枕元に近い位置にスツールを置き、眠りに沈む良尚の顔を見つめた。
 何から考えればいいのか。考えなければいけないことは山ほどある筈なのに、そのどれも引っ掛けることができずにいる。そんな自分に苛立ち、落ち込む。
 ――俺、華保と再会できて良かった。
 ふと、思い出す。
 センターで何度も顔を合わせるうちに、良尚がくれた言葉。彼にとっては何気ない一言だったかもしれないが、華保にとっては力をくれる言葉だった。
 素直に、頷いた。一緒の気持ちだと、笑った。
 けれどその再会こそが、仇になった。
「ごめん、ね…」
 何度言っても、何度繰り返しても、償えるものではないのだけれど。
「出逢わなければ良かったね、あたしなんかに」
 正面きって言えば、怒るだろうか。呆れるだろうか。嫌われる、だろうか。
 すっと背筋が寒くなった。この期に及んで、嫌われたくないと願っている自分がいた。
「馬鹿だ、あたし…。最低……」
 急激に泣きたくなった。惨めで、情けなくて。
「……華保?」
 どこか焦点の定まらない不安定な良尚の瞳とかち合った。ぐらぐら揺れる自身の内面が露呈しないように、拳をぎゅっと握った。
「痛むところない?先生呼んでこようか」
「…いや…。平気…」
 数瞬考えるように宙に視線を泳がせ、再び華保に転じた時には、ほんの少し微笑んだ。
 伸ばされた良尚の手が、何をするのだと見守っているうちに、華保の頬に触れた。
 じっと見つめられ、罪悪感から居た堪れなくなる。逸らしたくなる目線を、必死に固定した。
「…泣いて、た?」切なげに呟く。
 鼻の奥がつんとする。
 自分の状態よりも何よりも、華保を心配する眼差しが、痛い。
「悪い。心配させちゃったな」
 話しずらそうに、けれどこれだけは伝えなければとするように、続ける。
 首を横に振るしかできなかった。謝るのは良尚じゃない。心配されるのは自分じゃない。
 そう言いたいのに、声にならない。
「…っごめ…」
 良尚のあたたかい指先から逃げるように立ち上がり、勢い余って背中が窓にぶつかった。顔を見られなくて、良尚の視線から逃げるようにして逸らした。
「ごめ、ん。良尚…」
 起こってしまったことは消せない。戻ることはない。
 謝って済む問題なら、いくらだって謝る。恨まれて嫌われて、それで良尚の脚が元通りになるのなら、受け止める。
 どうか、と願わずにはいられない。
「華保?」
 憂えを帯びた声が優しく呼びかける。華保に返せるのは、謝罪の言葉だけだった。
 良尚に小さく息を吐かれ、過剰に反応してしまう。びくりと身体が強張る。怯えているのだと気づき、己を軽蔑する。
 良尚を心配している気持ちはある。けれどその陰に、潜むようにして、彼に嫌われたくないと縋る自分がいる。自分の感情を訴えようともがく、もう一人の自分が隠れている。
 そしてそれを、知られたくないと思っている、本心があった。
「あ…あの、あたしっ…ごめん。ちょっと…」
 うまい言葉なんて見つかる筈もなく、しどろもどろに吐き出しながら、ここから逃げる為に脚を動かす。
 心の中も頭の中もぐちゃぐちゃで、対面しているのが辛い。逃げたい気持ちばかりが勝ってしまっていた。
「華保」
 静かに呼ばれ、動きは封じられた。それでも見られないままでいると良尚は続けた。
「――ごめんな。病院なんて場所、来たくなかったよな。……思い出すだけだもんな」
 なにを、と問おうとして、良尚の双眸とかち合った瞬間、判った。
 華保が首を横に振るのと、良尚が次の言を放つのが重なる。
「脚が、駄目んなった時のこと…」
 華保の挙動不審な訳を、まるでそれこそが答えだと確信を持ったかのように、良尚は切なく表情を歪ませた。
 何故この人は、自分と同じ年数しか生きてないのに、こんなにも人を思い遣ることができるのだろう。
 自分はどうしてこんなにも、自分の心を保身することから離れられないのだろう。
 ひどく醜い。
「……違う、よ。そんなんじゃない」
 搾り出すようにして否定する。良尚に納得する様子はない。
「じゃあ、なんで…」
「ごめん。…なんでもない」
 あとにはもう、同じことを繰り返すしか出来なくなっていた。


[短編掲載中]