「柏倉先生ですか!?」
「正解」良尚が答える。
「じゃあ、君が舞阪さんだね。どうりで見たことがあると思った」
 伊織は従兄弟なだけあって、笑顔が似ていた。良尚ほどの無邪気さはないけれど。
「あたしも同じこと思ってました」
「同じ学校なんだから気づけっての。てか、華保は特に。先生の方が数が少ないだろ」良尚は呆れた調子をぶつけてくる。
 うるさいなぁ、と小声でぼやいて、ベッドサイドへと戻った。
 数秒前までの賑やかさは少しの気配も残さずなくなっていた。急に寂寥感が漂う。
「呼び止めて悪かったな。あいつらいきなり来るから参った」
「良かったの?追い返すみたいな形になってたけど」
「細かいこと気にする連中じゃないから問題ないよ。それよか、華保」
 伊織は近くにあった椅子を引き寄せ、ベッドを挟んで華保と向かい合う。
 落ち着かない感じで緊張しているさまは、ついさっき新任に就きました、と言われても納得してしまいそうなほどだった。
 年上なのに年上っぽくなく、失礼だけど、教師には見えなかった。スーツに着られてる感は否めない。
「うん?」
「この人が俺の従兄弟な。例の話さ、うやむやになったまんまだったから、とりあえず本人同士で話してもらおうかと思って。無理強いするつもりはないから、身構えなくていいよ」
「あ、うん…」
 この対面が気遣いだというのは理解できても、何をどう話して決めればいいのか、正直戸惑わずにはいられない。
「神妙な顔すんなって」良尚はからから笑う。「見た目、変じゃないだろ?中身もまぁ、フツーだよ。そのへんの心配だけでも取り除けたらって思っただけだって」
「良尚…、お前は事前になに吹き込んでんだよ」
「別に。…な?」
 な、と振られてもどう反応するのが正解か判らず、曖昧に微笑んでおいた。
 直接関わりがある先生ではないけれど、風聞を耳にしたことはあった。どれも良い方面のものだけで。
 だからコーチの話を持ち出された時も、それの懸念はなかった。
「しつこいって思われんの嫌だけど、も一回言っていいか?――俺はさ、華保が向き合うことで吹っ切れると思うんだ。俺が今こんなんだからって、押し付けて放置とか、絶対しないから。華保が頑張るってゆーなら、全力で支えたいと思ってるよ」
 支えたい、の宣言が、心に響く。
 罪悪感の後ろにずっとあった言葉だった。ずっと、願っていた。華保が、良尚に、そうしたいと。
 良尚が華保に、与えるべきものではない。
 自分よりも、他人を優先。こんな状況でさえ良尚の選択順位は変わらない。こんな自分にでさえ、言葉を、気持ちをくれる。
 嬉しくて、同時に、己に悔しさが穿たれる。
 引き受けて、頑張ってる姿を見せられたら、安心してくれる?
 支えてもらわなくても大丈夫なのだと示すことができれば、良尚は自分のことに集中できるだろうか。
 自分のことだけを、考えてくれるだろうか。
 そっと深呼吸し、柏倉伊織に向き直る。ぴんと背筋を伸ばした。
「柏倉先生。あたし、人に教えたことなんてありません。選手としてやってたのだって、数年のブランクがあるくらいです。的確なことができる自信はありません」
「うん」
 伊織は真摯な瞳を真っ直ぐに向けている。
「自信はないですが、あたし、やらせてもらいます」
「そう言ってもらえるのを期待して、持ってきたんだ」
 伊織は緊張を解き満足気な顔つきになって、足元に置いていた自身の鞄から、真新しいファイルを取り出し華保に差し出す。
「これ…?」
「開いてみて」
 中身は、きちんと整理整頓されたデータが詰まっていた。各個人のプロフィールや競技、受賞暦など、見易い形で並んでいる。
 写真付なのであらかじめ覚えておくにはいい資料だった。
「全部員の個人情報。時間のある時にでも見といてもらえたら、少しは役に立つかなと思って」
「さすが。相変わらず細かい」
 横から覗き見ていた良尚は揶揄を含ませながら感嘆の息を吐く。
「先生、この子ですけど」
 ぱらぱらめくっていた内の一人に目が留まる。そのページを開いたまま伊織側に向けると、いきなり謝られた。
「え?」
 華保も良尚も同時にきょとんとする。
「もしかして誤字とかあった?よくやらかしちゃうんだ。生徒に指摘されること結構あってさ」と苦笑した。
 間髪入れずの反応に噴き出してしまう。可笑しい。ほんと教師っぽくない。
「生徒に指摘されててどーすんだよ」などと、呆れ口調で突っ込む良尚を余所に、伊織に改めてファイルを見せる。
「この子、いい記録持ってますね、って言おうと思ったんです」
「あ…あ、そうか。うん、そう。篠脇はなかなかやるんだ」
「指導次第ではまだまだ伸びそうだな。遣り甲斐あるだろ、華保」
 空気よりも軽い調子でプレッシャーかけることを言わないでほしい。と、恨めしげに良尚を睨む。
 承諾するの、早まった?
「頼りない顧問だけどさ、協力するから。宜しくお願いします」
 ぺこり、と頭を下げる。
「協力すんのは華保!伊織くんは顧問なんだからしっかりしてくんないと」
 良尚はすかさず突っ込む。毎度のことなのか、伊織は苦く笑うだけだった。
 コーチは時間のある時だけやればいいという。成績の伸び悩みを良尚に相談したら、華保の名前が挙がったらしい。
 彼のこの判断がどういう結果を招くか見当もつかないけれど、引き受けた以上は全力で取り組みたい。
 そして良尚が描いたように、華保が望むように、なれればいい。そう願う。
「それで、怪我の程度はどうなんだ。いつ復帰できそうだ?」
 何気なく問う伊織は、怪我がたいしたことないのを前提にした軽やかな語調だった。当人の放つ明るい雰囲気から、そう判断しているのだろう。と想像する。
 その、何気ない問い掛けに、心臓が縮まる思いがした。
 まだ本人には伝えていなかった。今はとにかく静養すること、詳しいことは落ち着いてから。とだけ都は説明し、華保も真実を黙している。
 話さなければいけないことは、判っていた。それを話す時、話す側も聞く側も辛いことは明確で。
 その役目は自分がするからと、都は言った。
 良尚は知らないから、だからどうにか明るくしていられる。真実を知ったら、どうなってしまうのだろうか。想像すら、したくなかった。


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