「たいしたことないよ。すぐすぐの復帰は無理っぽいけど、まぁ、根性で驚異的な復活をみせてやろーじゃないか」
 あっけらかんと良尚は口にする。
「お前はいつだって前向きだな」
「伊織くんにも分けよっか?」
「……その減らず口を吐き出すとこ、縫ってもらったらいいんじゃないか?」伊織は痛いところを衝かれた面持ちだ。
 苦虫を潰したような顔のまま、ふと良尚のサイドテーブルにあった時計に目がいき、うわっ、と声をあげた。途端、伊織は落ち着きを失くした。
「俺、そろそろ学校戻るな。…舞阪さん、詳細は学校で打ち合わせしよう。本当にありがとう。これから宜しく」
 矢継ぎ早に言い放って、ばたばたと病室から出て行った。
 呆気にとられ見送っていたのだが、ふっと良尚が息を洩らし、互いに顔を見合わせた。
「ま、あんな感じで鷹揚に構えてられるような性格じゃないんだけどさ」
 取り繕うように、呆れたように、良尚は苦笑する。窺い見る視線に「余計不安になったか?」との問い掛けが含まれているみたいで、可笑しくなる。
「教師っぽくないね、柏倉先生って」
 顧問とコーチという間柄であるならば、上下関係の差は開いていない方が助かる。伊織に対する不安は無くなっていた。
「本人に言ってみー。へこむから」
 良尚が思うほど華保が不安を抱えていないと伝わったのか、安堵して軽口を叩く。
 万事があんな対応を受け続けているのだろうか。受ける側の伊織が少し気の毒にもなった。
 なんにせよ、受けると言ったからには無責任にはなれない。良尚の思惑通り、過去を吹っ切る起爆剤になってほしい。
 今度こそ帰るね、と言うよりも早く、良尚の纏う空気が変転した。
 華保を、かつてない静かな――というよりは、沈んだ声で呼ぶ。
 浮かしかけていた腰は重力に従順な形で、ストンと椅子に戻した。
「華保にさ、聞きたいことあんだ」
 身構えるほどの雰囲気を放たれて、けれどそれに気づかないふりをして、何食わぬ顔で聞く態勢をとる。
 本当は、続きを紡がれるのが怖いと思っていた。それくらい、常の良尚は消え去っていた。
 深く考えなくても、『今の状態』が当然な筈なのに、彼が無理をしていることくらい判っていたのに、事故に遭ってからずっと、彼の周囲に対する気遣いに甘えてきた。
「正直に、答えてもらっていいか。姉貴に聞いてもはぐらかされるだけで、もどかしいんだ」
 逃げ出したい衝動を、懸命に堪える。いつかは話さなければいけないことだ。当人が、いつかは聞かなければいけない現実だ。
 良尚が逃げずにいるのに、自分が逃げ出すわけにはいかない。
「――俺の脚は、元通りになるのか?」
「……っ」
 喉が詰まる。言うべき言葉も見つからない。
 真実は告げなければいけない。今がその時がどうかなんて判断できないけれど、良尚が望むのなら、今がその時なのかもしれない。
「包み隠さず、知ってるそのままを、教えてほしいんだ」
 真っ直ぐに向けられる良尚の視線から逃れるようにして俯いた。最低の行動だと知りつつも、正面から対峙できなかった。
 問われることを想定していなかった、といえば嘘になる。だからといって、良尚の心をできるだけ穏やかにさせてあげられるようになど、自分には無理だった。
 問わないでと、どこかで願ってさえいた。
「…ごめん」
 数秒の間の後、良尚はぽつりと零す。
 弾かれるように顔を上げた。視界に入った表情に、胸が締め付けられる。
「良尚が謝ることなんか…」
「ごめん。…華保に聞くのは酷だって、判ってんだ。けど…」
 おそらく、幾度となく、それこそ入院してからずっと、都には問い掛けてきたのだろう。無しの礫で、不穏な予感だけが澱のように溜まっていく一方だったに違いない。
 どれだけの我慢を溜め、吐き出したのかと想像するだけで、胸の内が軋む。
 拳をぎゅっと握り締めることで意識を保ち、大きく首を振った。精神面で際にきているからこそ、華保に問うという選択を決行したのに、それでも彼は華保を気遣う。
「知ってる範囲でいい。教えてくんないか?」
 少なくとも自分よりは情報を得ていると、彼は知っている。限界にある状態に対峙して、有耶無耶な答えなど、できるわけがない。
「跳べるんだよな。元通りになる、よな?」
 懇願する響きに居た堪れなさだけが募っていく。真実を話す他はないと知りながら、話すことを畏れている。良尚が望んでいるとしても、それを叶えることに恐怖する。
 膝の上に作っていた拳に、あたたかいものが触れる。良尚の手だった。
 華保の拳をすっぽりと包み込んでしまう大きなぬくもり。その指先が、震えていた。
「ごめん、華保。…頼む」
 強く、唇を噛み締めた。痛みを打ち、ゆっくりと解く。鈍重に息を吐き出し、眼差しを向けた。
「楽観視は…決してできない状況、なの。想像するよりも何倍もきついリハビリを経ても、元通りになれるかは判らなくて…」
 声が、嘲りたいほどに震えていた。
 ショックを受けるのは自分ではない。宣告する側がしっかりしなくて、相手の不安を拭えるわけがない。
 華保の冷静な部分が囁いても、湧き起こる感情に呑み込まれるばかりだった。
 安心を、孤独ではないことを、あげたいのに。
「はっきり、言ってくれ」
 良尚の指先に力がこもる。熱が沁み込んでくる。
「……可能性は、低い。これからの生活を考えるのなら、諦めるべきだって…」
 息を詰め、動きの一切を停止した良尚に、続けられる言葉はなかった。
 思考が真っ白になっていた。掻き乱してでも伝えるものを捜すべきなのに、機能しない。
 ハイジャンを好きだと言ってくれて、夢中になってくれて、出逢えて良かったと笑ってくれて。
 本当に本当に、嬉しかった。
 なのにそれらを総てぶち壊しにした。誰の手でもなく、この手で。
「――……ごめん、なさい」
 どうしたら償える、なんて、口にするのもおこがましい。
「なんで…華保が謝るんだよ」
 声のトーンだけでは、心情を量ることは不可能で。
 緊張や不安が圧し掛かり、潰されそうになる。
「華保の所為だって思ってんなら、見当違いも甚だしいんだっ」
 呆れた調子を帯びて、その中に憂えを含ませて、冗談を口にする軽やかさで言う。手の甲に乗せられていた手は華保の頬まで移動し、ぺちぺちと叩いた。
「事故ったのは俺がドジだっただけ。責任があるとすれば、俺にあるだけだ」
「違う…っ」
 良尚の表情に、声を詰まらせる。反論も言い訳も一切、放つことは叶わない。
 この表情を信じたい。良尚を信じたい。だけど――鵜呑みには、出来ない。
「了解?」
 瞳を覗き込まれ、真っ直ぐに眼差しを向けられ、目の奥が熱くなった。
「だけど、良尚っ…」
「ばーか。もういいんだって。この件に関してはこれでおしまいな」
 太陽みたいに綻ぶ。元気をくれる笑顔が咲く。
 華保は、自分が弱い人間だと知っている。この厚意をすぐに受け入れようとする弱い人間だと。
 駄目。甘えちゃ、駄目だ。
 ぎゅっと唇を引き結び、華保の頭を宥めるように軽く叩く良尚の手をそっと掴み、離した。
「あたしっ、」
「いいんだ、本当に。誰の所為とか、ましてや華保の所為とか、思ってない。そんな風に感じられる方が、俺には辛い」
 まるで、罪悪感は良尚の方にこそあるように顔を歪める。
「良尚…」
「な?」
 言葉は封じられ、続けるべきものは失ってしまった。
 彼が欲しているのは、謝罪じゃない。同情でもない。必要なのは、この自分にできることは、一体何があるというのだろうか。
 あの時、自分を救ってくれた光を、同じように彼に投げ掛けることができるだろうか。
 支えに、なれるだろうか。
「俺は、負けないからな」
 決意宣言ともとれる、明朗な断言だった。
「絶対、負けねぇ。こんなことくらいで、挫けてられっかよ」
 この絶望的な中で、普段は優しく綻ぶ双眸に、強い光を見た。誰もが持っている筈の弱い部分を感じさせない、強い意志の光だった。


[短編掲載中]