グラウンドに出ると風が華保を囲んだ。緩やかに吹き抜けていく中に、土の匂いが混ざっていて、懐古をくすぐる。
 懐かしい大会の時の熱気さえ、蘇るように。
 一点に目がいき、釘付けになる。
「舞阪さん?」
 数歩先をいっていた伊織が振り返る。華保が見つめる先にあるものを見つけ、複雑な顔をした。
「すみません。懐かしかったので、つい」
 小走りで追いつき、並んで歩き出す。
「やっぱり、辛かったら断ってくれても…」
「違うんです。単純に、懐かしんでただけですから」
 心の持ちようだけだったのかもしれない。
 辛いことがあったからといって避けてきた。連結させて、それに触れなければ傷は広がらないのだと思い込んで。
 良尚の言葉は確実に、華保の背を押してくれている。
 同じものを見ている筈なのに、気持ちが違うだけで、世界の色が違って見えていた。
 良尚に、感謝。
 そして、それを少しでも返していけたらと思う。

 先に部活動を開始していた部員を集め、華保の紹介が行なわれた。
 危惧していた通りの戸惑いが浮き彫りになっていたが、気にしないことにした。予想の範囲内だ。
「いっちゃん!」
 ぴんと天に向かって伸ばされた腕が一本あがる。身長が埋もれがちで顔が見えないのは、円陣の外周にいるからというだけではないだろう。
 声が発せられたことによって、映画の十誡が如く人垣が分かれた。見えた顔に、思わず声が出そうになる。
 ファイルで一際目を惹いた、篠脇漣だった。
 学年では華保の一つ下になるが、実際は写真で見たよりもずっと幼い印象を受ける。中学生でも通りそうだった。
 無邪気に掲げた手をぶんぶん振り回し「はいはいはいっ」などと言っているから余計に、なのかもしれない。
「……なんだ、篠脇」
 意味もなくはしゃいでいるように見えて、たぶんそれは普段通りの彼の明るさなのだろう。と推察できる、伊織のふり方だった。やんちゃな弟に呆れている風でもある。
 そもそも、「いっちゃん」などと呼ばれてるようでは教師の威厳は見えないというもので。
「コーチって、全般みるとか?」
 視線は華保に置いてあって、回答を求めている先はこちららしい。
「一応そういうことになっていますが、実は全般を指導できるほど専門知識はないので、んと、そうですね。マネージャーが一人増えた、という認識でいてくれるといいかもしれません」
 先行き不安にさせるような台詞だな、と自身でも思いつつ、誇張して言ったところで誰の得にもならないので、ここは正直に話しておく。
「はいっ」
 いったんは降ろしていた手を再び天に伸ばす。授業参観ではりきる小学生とだぶる元気のよさだった。可笑しくて笑み崩れ、頷いた。
「一応コーチってことは、昔競技をやってたってこと?」
「篠脇くんと同じです」間髪入れずに即答する。
 場にいた全員が、おや、という空気を醸し出す。伊織作成のファイルのおかげで顔と名前と競技は総て記憶していた。
「重点的にハイジャンになる?」
 何故か嬉しそうに篠脇は質問を重ねた。
「かもしれないです。ただ、ご覧の通り脚がこんななので、実践はできませんけど」
 冗談を口にする軽やかさで言う。
 言葉尻を攫うように、視線が脚へと注がれた。そこにあるサポーターを見つけ、それぞれが十人十色な表情を浮かべる。
「頼りなく思うと思いますが、その通りかもしれませんけど、宜しくお願いします」
 言葉は、重く言った分だけ重量感を増すもの。それだけ気持ちを沈ませる。同情も過剰な労わりも不要だから、脚の話をする時は軽やかにすることを心がけていた。
 ということだから、と場を打ち切り、伊織は各自練習に戻るように指示を飛ばした。
 解散していく人の流れに逆らって近づいてきた篠脇が華保の前に立つ。身長は顔半分くらいの違いしかないので、目算はほぼ正解だった。
 真正面に立っておきながら黙りこくって華保を観察するように眺めている。
 じっと見られるのはどうにも居心地が悪い。華保から口火をきった。
「学年部長の篠脇漣くん。なにか用?」
「んなもん、ていのいい雑用係だ」篠脇は辟易として零す。
 部の部長、副部長、それに各学年をまとめる学年部長の他、競技ごとに主任まで決めているらしい。プロフィールファイルの名前の横に青字で記入されていて、問うと伊織は少し得意気に説明してくれた。
 横で聞いていた良尚には「相変わらず細かい。つか、細かすぎ」と斜に見られ、駄目かなぁ、なんて萎んでいたけれど。
「雑用係って…」
 返答に困る華保を余所に、篠脇は「にしても、すげーな。全部頭に入ってんか?」感心した声を出した。
「うん、一応ね」
 すげーなぁ、と感嘆した途端、ごん、と音がした。脳天を押さえ込んで篠脇が呻いた。
 背後に立つ伊織が心底呆れ果てた顔で立っている。篠脇の頭上に落とした拳をほどき、今度はぺんと頭をはたく。
「油売ってないで練習に戻れ。その前に、舞阪さんはお前より年上なんだからタメ口きくな」
「いってーな!なに、はりきっちゃってんだよ、いっちゃんっ」
 伊織は否定したが、そう言われれば、篠脇の突っ込みは的を射ている気がした。たぶん、病室で会った時の伊織が普段の彼で、そうなるとやっぱり、今ははりきっていると判断できる。
 肩を掴まれ強制的に方向転換させられた篠脇は押し遣られつつ顔だけで振り返り、「判んないことがあれば俺に聞いてこいよー」などといっぱしなことを吐く。
 呆気にとられ、またもや返答に窮す。
 要するに、伊織が先生の扱いを受けていないことだけは、判った。


[短編掲載中]