舞阪コーチ、と呼ばれ、面映さ全開で声の主を見る。からかっているのを楽しんでいる、と容易に想像がつく面構えで入沢が立っていた。
「それ、お願いだから止めて…」
 華保が苦虫を潰したように表情を歪めると、ますます楽しそうに「なんで?」などとのたまう。
「柄じゃないから」と毎度の返答をする華保に、
「コーチに違いはないんだろ?」と、毎度つらっと入沢は返してくる。「いい響きじゃないか」
「からかって楽しんでるんでしょ?」と言えば、
「いや?」と揶揄全開で片眉を上げる。
 コーチ業を開始して早数週間が経過しようとしていた。
 入沢は暇さえあれば顔を出す、というスタイルがすっかり板についていて、その頻度はなかなかのものだった。自身も部活の後になるので、だいたいがこちらももうすぐ終わる時間帯になるのだけれど。
 何をするでもなく、華保の横にいて眺めているだけだ。
 何度目かの訪問の時、素朴な疑問をぶつけてみたことがある。暇なの、とはさすがに実直すぎるので遠回しに。
 入沢の学校と自宅の間に華保の学校は位置するのだが、本人曰くの「立ち寄っただけ」が当て嵌まるほどの出現度ではない。
 帰宅部であったとしても「そこまで暇人?」と問いたくなるほどマメにきているので、思惑があるのかと勘繰るのが自然とも言えた。
 あらかじめ用意していたともとれる素早さで、入沢は「楽しいからー」と間延びした返事を寄越す。舞阪を観察してるのが、と付け加えて。
 類友、という言葉が浮んだのは、被害妄想の所為ではない筈だ。
 良尚といい入沢といい、人をからかうことに興を置いている。それとも、自分はからかわれ易い性質なのか。
 そんなわけで、今日も陽が暮れる頃に到着した入沢は雑談を混ぜつつ華保の隣を陣取っていた。邪魔をするわけではないので迷惑になっていないし、伊織公認だし、で追い払うことはしていない。たまにさりげなくアドバイスをくれて、助かっていたりもする。
「なー、華保!いつまで基礎練中心?大事なのは判ってんだけどさぁ、俺のは異様に多くない?」
 いつの間にやら近づいていた篠脇が不満げに唇を尖らす。
 個々に練習メニューを作って実践してもらう形式をとっていた。全体的に基礎練習に重きを置いたものにしていたが、その中でも篠脇は七割方基礎を重点にしている。
 篠脇は中学入学時から陸上をやっていてそれなりの成績を残してきているが、実際動きを見ていて不安定さが拭えないのが気になった。
 成績を残すことを主に練習を重ねてきたのだろうか、と想像し、まずは身体造りを、という内容でメニューを作成した。
 おかげで、本人は気づいていないようだが、少しずつ変化は見えてきている。
「あとちょっと」華保は毎度の返しをし、
「馴れ馴れしく呼んでんなよ」入沢はむっと眉を寄せた。
 二人の声が揃うも、篠脇は入沢を無視する。
「耳タコ。華保のちょっとは度合いがでかすぎ!」
 そろそろ堪忍袋の緒が切れる頃合いかもしれないな、とむくれ顔を眺める。文句を述べつつもメニューは素直にこなすから、可愛げもあるってものだけど。
「ちょっとはちょっとだよ。辛抱、辛抱」
「かーほぉー」
 篠脇は恨めしげに呻くが華保はどこ吹く風状態を崩さない。
「だから、馴れ馴れしく呼ぶな」
 入沢はめげず異議を申し立てた。毎回聞いてる気がするのは、気の所為ではない筈だ。
 変ないがみ合いが始まっても面倒なので、篠脇を無理矢理方向転換させ背中を押し遣る。
「練習戻んなってば」
「おーぼーだぁ!華保―!!」
 篠脇は喚きながら背中側に体重を乗せてくる。
「呼び捨てにしないの!これでも年上なんだから」
 終始無視されていた入沢に代わって華保が異を唱える。頭をぱこっと叩いたら、体重を乗せるのを止めた。
 数歩大人しく進んだかと思えば半顔だけ振り返り、「ドジばっかのくせに」ボソリ呟く。
「るさいっ」
 素直に戻って行くなんて、一瞬でも安堵した自分が愚かでした。なんて苦く思う。
 隙あらば近寄ってきては何やかんやと構ってくる。悪い気はしないし、別段嫌がることでもないのでそれなりに応対しているのだが、それが小さな火種を産んでいることに、篠脇も伊織も気づいていない。
 小さなひずみが表面化する前に、どうにかしたいとは考えているのだけれど。
 どうやら伊織の人気は結構なものらしい。その伊織が頼りにしているのが自分達と大差ない年頃の、となると面白くない感情が湧くらしく。
 加えて、部内の弟的存在の篠脇までもが特定の人間ばかりを構いたがっているのも、相乗していると踏んでいる。
 判らなくはない感情だけれど。
 現時点ではごく一部の少人数に留まっているのだが、これが感染しだすと困った事態になりかねない。
「舞阪さ」
「うん?」
 しぶしぶ練習場に向かう篠脇の背中を溜息で送っていたら、腕を軽く叩かれた。
 入沢は違う方角に目線を置いたままで、入沢の横顔からそちらへと視線を転じた。
「あの子、陸部の子だよな」
「小峰さんだ」
 校庭の端、人目を避けるような位置に、小峰と彼女の腕を掴んでいる男子生徒がいた。
 目を凝らして見て、何度か見かけたことのある顔だと気づく。
「確か…」
 記憶を探って華保が呟いた時、耳元で「ありゃ元彼だ」と声がした。
 突然すぎて、小さく悲鳴をあげて飛び上がる。勢い余って入沢に衝突した。
「ご、ごめん。入沢くんっ」
 入沢は苦笑を洩らしつつ、華保が体勢を立て直すのを手伝ってくれた。
「人をお化けみたいに扱うなよなー」
 犯人である篠脇に悪びれた様子は皆無だ。
 誰のおかげか、とぼやき、斜に睨む。「小峰さんの、元彼?」
 部活が終わるのを待っていた姿を思い出す。小峰が周囲から冷やかされているのを目撃したことがあった。
「別れたらしいよ」篠脇はあっけらかんと言う。
「揉めてるっぽいね」
 元彼の捕縛から逃れようとしている風に見受けられる。
「揉めてるらしいよ」知ったような口振りだ。
「情報通?」
 華保が訝しげに見上げると、篠脇は心底うんざりした顔つきをとる。
「嫌でも聞こえてくるんだっての。ほら、小峰って目立つ方ってゆーかさ、煩い、の分類にいる人種だろ。だからさ」
 判るだろ、との含みを込めて篠脇は華保を見る。肩を竦め、視線を現場の方に戻した。
 思い当たる節が無いわけではない。というか、思い当たってしまうというか。
 華保の陰口を叩く数名の中で、先陣きっているのが小峰だった。華保の存在自体が気に喰わないらしい。
「あれ、止めた方がいいのかな?」
 遠目からでも紛糾とした喧々囂々さが伝わってくる。無関係の自分――しかも小峰が敵視している相手――が入ったところで火に油を注ぎそうな気がしなくもないが。
「ほっとけば?勝手に揉めてるだけなんだし。華保に関係ないじゃん」
 ごもっともな意見ではあるけれど、篠脇ほどに冷淡に見過ごすのは気が引ける。
 うーん、と逡巡する間に篠脇は続けた。
「他に好きな人ができたっつって小峰を振って、でもその彼女とうまくいかなくてより戻したい、とかって話らしいよ。そんなん、他人が口挟むことでもないって」
「どっから仕入れんのよ」
 華保が呆れると、篠脇は大仰に溜息を吐いた。
「だーかーらっ。聞きたくなくても聞こえてくるんだって」
 そうこうしているうちに、元彼の手を振り払った小峰が制止に取り合わず、フィールドへと戻ってくる。
 慌てて三者三様、誤魔化すようにぎこちなく動いた。目が合おうものなら睨まれそうだ。
 頭の後ろで手を組んで、わざとらしく口笛を吹きながら篠脇は今度こそ練習場へ向かった。
 華保と入沢の前を通り過ぎる時、華保だけに一瞬向けられた視線の鋭さに、通り過ぎてから苦笑を零した。入沢は驚いて目を見開いている。
「怖えぇ。なんだ、あれ。八つ当たりか?」
「見てたのに気づいたんじゃない?」
 適当なことを言ってみる。それが理由だとするなら、華保だけを睨む、とはならないだろう。
 部内における華保の状況を入沢に気づかれると良尚にまで伝わる可能性はある。
 下手な誤魔化し方だったかと入沢を窺い見るも、疑っている様子は無かった。
「怒り心頭、ってとこか」
 やっぱり八つ当たりじゃねーか、と入沢が呆れ返っているのを確認し、安堵する。
 良尚が紹介した場で、不穏な空気があるだなんて知れたら心配をかけるだけだ。それだけは避けたい。
「そろそろ終わりにしよっかな。小峰さんもあんな直後じゃ集中できないだろーし」
「やさしーんだ?」
「はいはい」
 入沢の揶揄は軽く流して、方々に散っている部員達に向かって笛を吹く。伊織がいち早く駆け付けた。まるで犬みたいだ、と笑えた。
 簡単に終礼を済ませ、再び片付けの為に部員達は方々へと散って行った。
「なー、舞阪さ。この後、暇?」
 部員達よりもひと足先に校舎に戻る華保の後に入沢は続く。駅までの道程は同じなので、一緒に帰ることは常となっていた。
「予定あるんだ。駅までなら一緒できるけど。あ、そっか。入沢くんも行く?」
 華保のしゃべりに合わせて、沈んで浮んで、と変化した入沢の表情を疑問に思いつつ問う。問い掛けに対しては嬉しそうだった。
「どこ?」
 こちらも犬みたいだ、と心の中で笑う。


[短編掲載中]