診療時間外の病院は必要最低限の照明だけに絞っており、人気の無い奥の方は闇が漂っていた。非常灯のみが緑色に浮かび上がっている。
 面会時間をとうに過ぎた時間帯にやってくるのは初めてではなく、すっかり馴染みとなった看護師達も目をつぶってくれていた。
 足音を忍ばせて廊下を歩く。入沢は「夜は不気味だ」なんて言いながら苦い顔をしていた。
 入院病棟側に入ると消灯時間までは廊下の蛍光灯も点けられていて、踏み入った途端に入沢は胸を撫で下ろした。
「実は暗いトコ、苦手?」
 普段のお返しとばかりにからかってみる。不服そうに黙しているのが可笑しくて、くすくす笑う。
「二人揃って御出ましか?」
 病室の戸口に寄り掛かって立っている良尚がいた。口調に棘があるように感じるのは、気の所為だろうか。
「入沢くんもちょうど帰るところだったから」
「どうせ華保の邪魔しに行ってたんだろ?そういうのは、ちょうど帰るところ、とは言わない」
 華保の言葉に対しての返しなのに、良尚の目線は入沢にあった。
「二人、喧嘩でもしたの?」
 でもそれだったら見舞いについてくるとは言わないか、と即座に思い直す。
「元気そうだな。仮病ならとっとと退院しやがれ」
 華保には見えない水面下で小さな火花が散っていることに、華保だけが気づかずにいた。
「減らず口め」
 よく判らないが雰囲気が良くないとは悟る。良尚に近づき見上げた。
「良尚疲れてるでしょ。長居しないで帰るね。顔見に寄っただけだから」
「変に気回ししなくていーよ。入沢は帰ってくれて構わないけど」
「俺に喧嘩売ってんのか?」
 二人の表情をおっていて、雰囲気が悪いんじゃない、と修正。むしろ、気心が知れた相手にだからこそとれる態度なのかもしれない。
「二人、仲いいんだね」
 ぽん、と左の掌に右の拳を打ち付けて華保は納得の面持ちをする。
 華保を挟む格好で突っ立っていた男二人は呆気にとられ、同時に空気を解いた。
「華保、鈍過ぎ」良尚はくくっと笑う。
「舞阪さ、ウケるんだけど」入沢は腹を抱えるポーズをとった。
「なになにっ。ちょっと、二人とも感じ悪いんだけどっ」
 むくれる華保を笑音が包み込む。
「東郷良尚っ!?」
 和む三人の輪に素っ頓狂な声が割り込んだ。驚いて声の方を見る。潔いほど真っ直ぐに指を差している篠脇がいた。
「篠くん!?」
 思わず大きくなった声に、はっと口を押える。
「どうしてここにいるの?」声を潜める。
「尾けてきたのか?」入沢は問う。
「全く気づかないんだもんなー。楽しかったけど、遣り甲斐ないったらありゃしない」
 篠脇に悪いことをしたという認識は無いらしい。浮ぶ表情に、悪戯に成功した子供だ、と思う。
「それよか、華保っ。東郷良尚と知り合いだったんだなっ?」
 はしゃいだ声を出されて慌てて「しーっ」と人差し指を唇にあて諌める。篠脇は肩を竦めるにとどまった。
「良尚って有名なの?」
「そりゃー出る大会で上位保持してりゃ名も知れるってもんだって」
 自分のことのように得意気に話す。言われてる本人は恥ずかしげだった。
「舞阪だって、そうだろ」
 入沢に言われ、よもや自分に矛先が向くとは思ってなかった華保は間抜けな声を出した。
「あたし?」
「俺は注目してたんだ、当時から。東郷よりもずっと前に、見つけてた」
「あー…、そっか。あたしには初対面だったけど、入沢くん知っててくれたんだもんね。女子の方にまで意識が及んでたのはすごいよね。ずっと覚えてたなんて、記憶力いいよ」
 華保が感心を示すと良尚は噴き出した。入沢は顔をしかめている。呆れたように篠脇が苦笑して、華保だけが疑問符を浮かべる結果となった。
「変なこと言った?」
 奇妙な空気を把握できていないのは自分だけで、それぞれ男三人の顔を順繰り見ても誰も答えてくれなかった。三人に囲まれる形で華保はぶうたれる。
 笑いが終盤に差し掛かった頃、
「怪我してたんだ」
 篠脇がぽつりと呟いて、場がしんとなる。本来の静けさを取り戻した廊下の気温が、すっと低くなった。
 篠脇にしてみれば記録保持者に会えた喜びと、落胆が押し寄せているのだろう。今の姿は、知りたくなかったに違いない。
「だからこの前の予選、いなかったのか」
 納得する為の音量なのか、小さなものではあったが周囲が静けさに閉ざされていれば充分耳に届く。気落ちが見て取れて、居た堪れなくなった。
「休息中だ」
 そぐわない明るいトーンを放ったのは良尚だった。
「俺ばっか表彰台独占してたら申し訳ないだろ?他の奴等にしばらく譲ってやろうかと」
「偉そうだな、お前は」素早く反応したのは、入沢だった。
 気遣いが、痛い。
 庇う必要なんてないのに。優しすぎて、苦しかった。
「余裕かましてる内に抜きますよ、俺」
 もともと神妙なのを得意としない篠脇は流れに乗る。
「やってみろ」良尚は挑発的な笑みを刻んだ。
「復帰は?」
「すぐしてやるよ」
「それは、楽しみっすね」
 どうしてそんな風に笑っていられるのか、訊きたかった。
 どうして責めないのか、問い質したかった。
 良尚は強い。そして、ほんのひと握りの希望も、棄てない。
 支えになりたいと、願っている。自分にできる何かがあるのなら、全身全霊で遣り遂げたいと。その、胸の内に固めていた決意が、揺らぎそうになる。
 怪我の程度を良尚に話した後、都にそのことを告げた時、役割を押し付けてしまって悪かった、と謝られた。
 首を振った華保に、都は訊いた。何故理学療法士なのかと。
 自分で言うのもなんだけど、と前置きをして、五体満足な身体であっても厳しい仕事なのに、あえて何故それなのかと。
 真摯に眼差しを向けられて、気圧された。
 目指すと言った時、都は喜んでくれた。頑張ろうねと励ましてくれた。センターに通うようになって、華保の遣り易い方法を考えてくれた。何の資格もない自分を、皆が受け入れてくれている。居場所を作ってくれたのは都だ。
 何故いま、その問いなのかと、訊きたいのは華保の方だった。
 向いていない諦めろと言われるのかと畏れ、返答に窮した。
「変な風に考えてる?」
 都は小さく笑い、ごめん、と言う。「悪い方に考えなくていいのよ」と言って、柔和に笑んだ。
「華保ちゃんがね、目指すって言ってくれた時、本当に嬉しかったの。同時に、ちょっと不安でもあったわ。仕事である以上、甘えは許されないから。脚が、なんて言い訳は通用しない」
 真剣さを解いて、柔らかく続けられたけれど、その内容に華保は緊張を解くことが出来ずにいた。
「無理、でしょうか…?」
 膝に置いていた手を握り締める。
 都に言われるのなら、覚悟を決める必要があるかもしれない。
「無理ではない、と思ってるわ。健常者に比べたら、ほんの少し爆弾を抱えていることは事実だけどね。努力と工夫次第でどうとでもなる、と私は考えてる。――ね、大切なことってなんだと思う?」
 明るく問われ、益々雰囲気に気後れする。都の言いたいことがまるで見えない。
 数瞬逡巡し、知識と経験でしょうか、と返す。
「それも正解。でも、もっと大切なものがあるわ。…もっとも、と言うべきかしら」
「もっとも、大切なこと…?」
 知識よりも技術よりも経験よりも、大切なこと。
 反芻して考え込む。華保が真剣に思考に耽るのを、都の表情が満足げに綻んだ。
「患者の、支えになること」
 口にはしなかったが、ずっと心の底に停留していた想い。
 やっぱり、都さんには敵わないや。
 緊縮した所為で、また何の返答もできず黙するしかなかった。それさえもお見通しだというように、都は続ける。
「心の支えになるのには、資格なんてものは要らない。誰にでも出来そうなものだけど、多分それは難しい。…でも、華保ちゃんなら、尚の気持ちを判ってあげられるんじゃない?」
「あたし…判ってあげられるでしょうか」
 そして、支えとなることができる?
 悲しみや辛さや遣る瀬無さなら、判る。でも、その他は?
 彼と自分は違う人間だ。根幹の強さがまるで違う。
「心に、添おうとすることが大事なの。技術的な事は専門の人に任せて、貴女は貴女で、尚を助けてあげて」
 自分の内側で、何かが動くのを感じた。
 支えとなるのに、資格は要らない。
 判ってあげたいと思う気持ちが、大事。
 必要とされる人間になりたい。――そう、願ったのに。


[短編掲載中]