人の喜ぶ顔を見るのは心地がいい。
 順次渡された個々の練習メニューを覗き込む顔は、一様に嬉しそうに見えた。
 メニューは華保と良尚の共同作業で作り上げられている。これまでは必要に応じて少し変更することもあったけれど、大幅に変えることはなかった。
 だが今回のは一新していた。基礎重点から大会へ向けての調節へ。
 地区予選はすでに始まっているのに、という抗議が伊織の元に届けられていたことは耳にしていたが、その時点では頑として変えることはしなかった。
 基礎が大事だというのは浸透しているおかげか、多少なりとも不満があれど、目立った文句が爆発することなくやってきていた。けれど、やはり実技中心に変更していくと嬉しいものらしい。
「さー、各自練習に行った、行った!」
 ぱんぱんと手を打ち鳴らし伊織は明瞭な声を張る。生き生きとしているのは部員ばかりではない。
 部員達がそれぞれ持ち場に戻って行くのを見送って、華保は手元にあるファイルに目をやった。伊織が作成したファイルは部活時の必需品と化していて、結構なヨレヨレ具合になっている。
「本当に、よかったの?」
 ついさっきまでの勢いはどこへやら。急に萎んだ声を落とされて、露骨に疑問を浮かべて伊織を見遣った。
「本当によかったの、って?」
 おうむ返しで問うと気弱そうに眉を下げた。
「メニュー考えたの、俺ってことにしておいて」
「そのことですか」
 どんな深刻なこと言われるのかと身構えたのをゆるりと解く。
 これまでもずっと、メニューは伊織が考えたもの、ということにしていた。その方が何かと都合がいい、という華保の読みは当たっていて、これに関していえば成功だと言えるだろう。
 同年代が考えたメニューだと提示するより、名前だけとはいえ顧問が考えたものだ、と言った方が受け入れ易いだろうと想定してのことだった。華保が部員の立場だったらそうだと思うから、と渋る伊織を説得した。
「いいんですよ、これで。先生が考えた、って言っといた方がしっかりやってくれますって」
 必要以上に明るく言って、話題を引き摺られないように打ち切ったところで、ぬっと登場したのは怪訝さ満面の篠脇だ。
「これさ、ほんとーにいっちゃんが考えたもんなん?」
 胡乱げに伊織に詰め寄った。二人の対話を聞いていた上でカマ掛けをしているのか、と勘繰りたくなる勢いだった。
「う…まぁ、そう。なんで?」伊織は気圧されたじろいでいる。
「練習に入んなさいってば。ほんと、神出鬼没なんだから」
 前触れなくひょこっと登場することは本当に多い。だいぶ慣らされてしまって、最近ではそう驚くこともなくなっていたけれど。
「いっちゃんが考えたにしては中身が厳しい」
 篠脇の標的は未だ伊織だ。無視されても負けじと華保は横槍を入れる。
「本選前の調整にしてるだけ。そもそも、基礎練が多いだの文句言ってたの誰?」
「華保は黙ってろー」篠脇は間延びした言い方で制す。
 大方、華保にふったところではぐらかされるのがオチだと踏んでなのだろう。伊織に迫れば綻びが出ると予測してたなら大間違いだ。問い質す気だったなら、華保が傍にいない時を狙うべきだ。
「これでも年上!少しは敬え」
 斜に見たところで篠脇には堪えない。
「年上らしかったら敬ってやらぁ」
 減らず口を叩き続けるのは篠脇の十八番だった。何度言っても直らないので、今では諌める程度の注意しかしていなかった。
 ばこっ、と音がしたのは華保が息を吐いたのと同時で。
 頭を抱え込んで呻いている篠脇の姿はこれで何度目だろう。全く懲りないな、と内心で笑う。
 伊織の鉄拳を落とされ、恨めしげに睨み上げている。
「細かいことをいちいち気にすんな。篠脇がやんなきゃいけないことは他にあるだろ。さっさと行け」
 しっしと追い払われ数メートル進んだかと思うと唐突に振り返り、盛大に舌を出した。それから華保を見て、メニューを高く掲げる。
「華保っ、これ、すっげーいいと思う!」
 叫んで、すぐさま走って行ってしまった。
 見る人が見れば判る、か。
「……子供か、あいつは」伊織は呆れ返って呟く。
「子供です」華保はくすくす笑って断言した。
 飽きないというか何というか。
 発想が子供じみているので、好きな人間に対しては非常に人懐っこいのだが、苦手な人間にはなるべく近づかないようにしているのが容易に見て取れた。
 前者は伊織で、後者は小峰、といった具合に。どうやら華保は前者に入っているらしい。
 篠脇がそうだからといって、相手もそうとは限らない。
 部内でマスコット的存在になりつつある篠脇が、何かにつけて華保の近くでうろちょろしているのを面白くないと感じる人間はいるわけで。
 華保に対する反感心は、そんな些細な蓄積から発生しているのかもしれない。

 本日は晴天なり。
 ということで、青空を苦手とする華保はなるべく日陰を選んで居場所としていたのだが、あまりの陽気にあてられて、ただ立っているだけのことが酷く難儀になりつつあった。
 油断するとふっと身体が傾ぎそうになる。
 伊織の、何度目かの気遣いの言を甘んじて受け入れ、校舎内で少し休憩をとることにした。伊織からのこうした気遣いの言葉は、天候のいい日に限ってある。
 華保が直接話したことがないことから推察するに、良尚からの情報提供なのだろう。
 正直、有り難いと、思う。
 強くなりたくて、弱さを棄てたくて、気ばかりが急きがちで。故に華保には、無理を強いろうとしてしまうところがあった。
 周囲の方から言ってもらえる方が、素直に従い易いこともある。
 グラウンドから正面玄関へと向かう途中に陸上部にあてられた部室がある。長屋のような建物には数個の扉が整然と並び、中はそれぞれ壁で仕切られている。その内の二つを陸上部が使用していて、男女に分けていた。
 前を通りすぎようとした時、聞こえてきた声に思わず歩みを止めた。部室内は空っぽである筈なのに、近づくと人の気配も感じられた。女子側の部室で、それなりに潜めてはいるが盛り上がる話題なだけに、その音量は徐々に上がりつつあるようだった。
 予想のつく内容だけに辟易する。立ち聞きのようで居心地も悪く、明確に聞き取れば更に言い表し難いものが蓄積するのは明白で。
 立ち去ろう、と動こうとして、一際大きく聞こえてきた悪口。ぽん、と人物が思い浮かぶ。
「あたしなら、絶対無理。なに堂々と出しちゃってるわけ?」
「普通隠したくなるもんだよねー」
「同情ほしいんじゃないの?優しくしてー、みたいな?」
 しなを作った声の直後、笑いが沸く。
 主語がなくとも、誰を肴にしているのか判る。
 左脚のこと、か…。
 無意識に足元に目がいった。呼応したかのように、じんわりと痛感が浮上した。


[短編掲載中]