洋服を着るのと同じで、華保はサポーターをつける。無しで歩けないわけではないが、無しで歩くのは辛い。つけて若干のびっこ程度に抑えて歩行ができる。
 それでさえ、人目はそれなりに注目を集める。露骨に同情を向けられるのも、関わらないようにと逸らされるのにも、慣れた。
 どう足掻いたところで完全な復元は望めない。負担を軽減させる為に必要ならば、サポーターをつけることを厭うことはない。と考えている。
 そう割り切れるようになるまでには、それ相応の時間が必要だったけれど。
 自分の一部なのだから、何を隠すことがある?と、今では堂々と出している。
 制服はスカートだから仕方ないにしろ、部活時にハーフ丈ジャージはどうなのよ?ということだろう。少しでも多くの時間、人目に晒さない方法を普通は考えるものなんじゃないの?と。
 気に喰わない相手の罵詈を言い合うことほど楽しいことはない。エスカレートしていくのは自然の摂理と呼べた。
 終息を見せないそれらは、その者に関わることであれば中身を転じていく。
「あの人さ、理学療法士目指してるって知ってた?」
「あー、聞いたことある。…てか、あの脚で?」
「自分が治療受ける立場だって、気づいてないの?」
「まともに歩けない人間に指示とか、出されたくないよねー」
 身体の中心を貫かれる思いがした。
 自分がどう見られていたか、が判って、それこそが一般的な思考なのかと知らしめられた気分だった。
 周りにどう思われようと関係ない。と、強く断言できるほど、華保は自分の目標の実現に自信を持てていなかった。むしろ不安に取り巻かれているくらいで。
 彼女達が発する本音は、華保の本音とも言えるかもしれなかった。
 ――だけど、必要だった。
 好きなことを夢にして、それを叶えていくことがどれだけ大変なことかくらい、想像出来る。それでも、あの頃の自分には、前向きになれる目標が必要だった。必死になれるものが必要だった。
 何かをしなければ、何も変わっていかない。そんな風に前向きな考えを取れるようになったのは、都や周囲の支えのおかげだった。
 あたたかな人の気持ちを、大切にして、力にしていきたかった。
「華保」
 唐突に呼ばれ、周囲に全く注意を払っていなかった分、大きくびくついた。相手は、振り返るよりも先に華保の肩に手を置き、脇へ押し退けようとする。隣に並んだ篠脇の横顔は、今まで見たことがないくらい、怒りに満ちていた。
 目線は真っ直ぐに、目の前のドアに置いてある。篠脇の手がノブに伸びかかり、慌てて掴んだ。
「放せって。こんな戯言、最後まで聞くつもりか?」
 怒り口調のままだが、音量は最小限に留めてくれた。首を振り続けている華保の気持ちを汲んでくれている。
「言われっぱなしでいいのかよ!?」
 一体、どの時点から聞かれていたのだろう。羞恥心が込み上げた。
「駄目。篠くん、おさえて」
 ドアと篠脇の間に入って、後退させようとする。篠脇は強引に前進はしてこなかったが、気を緩めると摺り抜けられそうになる。
「なんでだよっ」
 どちらに対する怒りなのか、すでに判断できない。あるいは、両方か。
「とにかく、お願い」
 喉が詰まって、それでも無理矢理言葉を吐き出して、結果、涙声になっていたのが悔しかった。いつでも毅然と、凛としていられない自分が、悔しい。
 彼女達の言葉に、傷ついていることを自覚させられて、その弱さが悔しかった。

「訳をを聞かせてもらおうか。俺が、納得のいく訳があるなら」
 どうなんだよ、という態度全開で、一緒に校舎内へ入った篠脇は横で苦言を述べ続けていた。
 日陰になっている場所はひんやりとして、気分的な落ち込みも、様々な感情も鎮まっていく。
 心配故の怒りなのだと解釈している華保としては無下にもできず、無言で苦笑を返す。
「いつからだ。ずっとなのか?」
「んん?」
 とぼけて首を傾げる。篠脇はむっと眉根を寄せた。遠慮の一切無い、露骨さだ。
「腹、立たないのかよ?」
「怒ってるのは篠くんだよね?」
 茶化すと鋭い視線を投げられた。
「俺は無茶苦茶むかついてんだ」
 拳をやりどころなく振り回す。
「――うん、なんかさ、」
 呟いて、窓の外を見た。のっぺりと青一色の空間に、もこもことした雲が浮んでいる。
「華保?」
 次の言葉を待っても何も続かないのを不審に思ったか、篠脇は顔を覗き込んでくる。固まっていたことに気づかされ、曖昧に笑んだ。
「ずって歩けばやっぱ注目はあるからね。だったら堂々と一目瞭然な方が小気味いいかなって。人の関心なんて、ましてやその場で見かけただけの人への関心なんて、光陰矢の如く。――ってね、今では軽口も叩けるんだけど。でも、」
「でも?」
「うん。…でもね、青空が苦手なんだよね」
 口にして、苦笑が漏れた。情けなさがせり上げて、羞恥に染められる。とってつけたように加えた。「自虐的でしょ?」
 できるだけ、ふざけた風に口にする。深刻に言えば、ますます落ち込みそうになる。
「心持ち次第、って考えるようにはしてるんだけどね、どうしても駄目なものは駄目っぽくて」
 青の色が、心を抉る。痛みを、呼び起こす。
 ――あの日も、青空だった。
 跳べた、と思った瞬間、全身を貫くような激痛が走った。動けなくなったマットの上で見た光景。脳裏に焼き付き、離れない。
 だだっぴろい青の空間が、容赦なく襲いかかってきた。視界いっぱいを埋め、襲い掛かる。
 あの日の空が、忘れられない。
 こんな天気の日は、必ず思い出される。できれば、消し去ってしまいたい記憶だった。
 左脚なんてなくなってしまった方がマシだ。時々、本気でそう思う。
 二度と跳べないのだから。跳べないのなら、要らない。
 落ちる瞬間がスローモーションのように、何度も、何度も繰り返される。同じシーンばかりが頭の中を駆け巡る。
 頭を抱え込み、情景を掻き消そうとしても、なくならない。
 思い出したくないのに、吹っ切った筈だったのに。
 心の傷は消えない。深く深く、貫く苦しみ。
 諦めた筈だった。吹っ切れた筈だった。だけど――
 気がつくと、視界が滲んでいた。慌てて篠脇からは見えない角度に顔面をずらした。
 痛みよりも、跳べなくなったことへの悲しみと、あの時の自分の弱さが悔しくて。
 すごく、情けない。
 泣くしかできない自分が、惨めに思えて仕方ない。泣いたって、時間は取り戻せないのに。
 支離滅裂な話の流れに口を挟まず、篠脇は耳を立ててくれていた。
 ただ、一向に本筋が見えてこない、というのが顔に書いてあって、素直な性質が顕著に表れている。
「あたしね、青空が苦手で克服したくて、コーチなんて慣れないもの引き受けたんだ。不純な動機でしょ?でも、あたしにしたら切実で、結構必死。離れたくないの。……だから、お願い。波風立てたくない」
 篠脇は困った風に眉をひそめた。戸惑っているのだろう。
 了承はなかったが、否認もなかった。



[短編掲載中]