擦れ違いざま耳に届いた断片が、小さく引っ掛かった。
 病院であるこの場所では、充分ありえる中身だというのに。思わず、華保は歩みを止め、擦れ違ったばかりの男二人を目で追った。
 ――逸材なのに、勿体無いよな。
 ――本人はまだ諦めていないのだから、体制だけは整えておきたいな。
 ――上に掛け合うか。
 深刻そうな面持ちをつき合わせ、話は継続していた。スーツ二人組、というのが違和感なのだろうか。

「かーほちゃんっ」
「あ、こんにちは」
 ナースステーション前の廊下のど真ん中を陣取って立ち尽くしていた華保に声をかけたのは、迷子になっている伊織の対応に困っていた看護師だった。
 今は少しゆとりがあるのか、表情の険しさが普段より和らいでいる。
「この前はありがとねー。ほんとに忙しくってさ」
「いいですよ。あれくらいのことならいつでもお手伝いできますから」
「すっかり馴染みさんだもんねー、華保ちゃん」
 病院の馴染みというのはいいのか悪いのか、と心の中で苦笑する。
「そうそう。ちょっと待ってて」
 何かを思いついたかのようにぽんと手を叩いて奥へと進んでいく。何事か、と動向を見守っていると両掌いっぱいに個別包装の菓子を持ってきた。そのまま華保の前にずいと差し出し、条件反射よろしく出ていた華保の掌に菓子の小山が移った。
「え、これ?」
「この前のお礼。頂き物なんだけど御裾分け。これから東郷くんのとこでしょ?一緒にどーぞ」
「ありがとうございます」
 揶揄を帯びたウインクを颯爽とスルーしておく。
 どうやら、周囲にたまたまからかいたがる人間がいるのではなく、自分がからかわれ易い性質なのだと、本気で疑い始めてみる。

 良尚のベッドは六人部屋の一番奥、窓側にあった。
 今日は面会時間内に到着できたが、他の患者さんの所に見舞い客の姿はなかった。ついでにいえば、留守のベッドが五個で、良尚もその中の一つだった。
 入口に踏み入れた時点で姿がないことは明確だったけれど、ベッドの方まで進み入る。
 良尚のはす向かいは転んで怪我をした老女で、病室に入ってきた華保を見つけると笑顔を向けた。
「おばあちゃん、こんにちは。具合はどう?あ、これ御裾分けもらったの。どうぞ」
 菓子の小山は渡された時の格好のまま持ち歩いていて、そのまま差し出す。
「ありがとね。じゃあ、お返しにこちらをどうぞ」
 脇のテーブルにあった篭の中から菓子を摘み、小山に加える。
「ありがとう。物々交換みたい」
 老女の人柄なのだろうか。家族はもとより、同じ年代の男性も女性もよく見舞いにきている。これはたぶん、そんな友人達からの見舞い品なのだろう。
「良尚どこに行ったか知ってる?」
「そういえば、だいぶ前に出てったきり、帰ってきてないねぇ」
 記憶を探るような顔つきになる。そして思い立ったように「一時間くらい前になるかしら。スーツを着た男の人達と出てったわね」
「ミーティングルームかな?」
 面会者と会う場としては勿論、入院患者同士で談笑するのに使用したりする共同のフロアがある。
「さて、どうだろうね。深刻そうな顔してたから、聞かれたくない話だったのかもね」
「そっか。じゃあちょっと捜しにいってみようかな」
 ざわつく内側を無理矢理振り切って、笑顔を向けた。ベッドサイドのテーブルに菓子の山を乗っけて、すぐさま踵を返した。


 面会時間の終了までミーティングルームは開放されている。
 人がいない時は消灯することが周知徹底されていて、廊下に漏れ出ている灯りは、人がいることを示していた。 明るく清潔に保たれた空間に、ぽつりと一人、良尚はいた。
 壁際に置かれている自動販売機の稼動音が、低く室内を満たしている。それ以外の物音はない。煌々とした蛍光灯の下、沈んだ表情はひどく似つかわしくないものに思えた。
 気配に気づいたのか、ぱっと出入り口を見遣った良尚は、相手が華保だと判ると、途端に笑顔を作る。
「今日は早かったな」
 ついさっきの横顔が幻覚だったのかと疑うほどに、明るい笑顔だ。
「うん。あ、ねぇ。なにか飲む?」
 思いついたように自動販売機へ方向転換する。
「俺はいーよ。あるから」
「判った」
 正面に座り、ちらりと視界に入った良尚の前に置かれたコップの中身は、手付かずのままだった。
「相談事?」
「へ?」
「相談があるんだって顔に書いてある」
 ある筈もないのに「ここに書いてあるよ」と示すかのようにして、良尚は自分の頬を指先で弾いた。
「書いてないない。――けど、正解」
 笑いながら着座し、買ったばかりの紅茶を一口飲む。熱い液体が喉を滑り落ちていった。
「やっぱりな」得意気にして、先を促す。「で?部活のこと?」
「うん。鋭いね」鞄から伊織作成のファイルを取り出し広げる。「練習の仕方なんだけどさ、大会に向けてどのあたりを強化すべきか悩んでて」
 ファイルを手繰り寄せ思案ののち、アドバイスを寄越す。幾人かの気になっていた全員を終え、ひと息ついた。
「助かるー。入沢くんも相談乗ってくれるんだけどさ、二人とも同じところで悩むことが多くって」
「あいつ、まだウロついてんだ?」
 邪魔くさい、といわんばかりに言うのが笑える。
「くるペースは変わらないかな。篠くんと意見ぶつかることが多くってさ、喧嘩してるようなじゃれ合ってるような討論してるよ」
「想像つくな」
「そうそう。篠くんが良尚に逢わせろってうるさいの。騒がしいのは立ち入り禁止って言って却下してるんだけど。大人しくするって約束したら、連れてきてもいい?」
「構わないよ。俺の周りは騒がしい奴らばっかだ」
「良尚って本当に有名なんだね。篠くんがね、いかに良尚がすごいかってことを話してくれるの。自分のことでもないのに、すごい自慢げで。あたしさ、陸上離れてから情報入らなかったから全然知らなくて」
「楽しくやってるのか?」
「うん?」
 騒がしく、一人でぺらぺらしゃべっていたことに気づき、これでは篠脇のことを言えないと苦笑する。
 どこか、急き立てられるような、焦りのようなものを感じていた。
「ごめんね。あたしばっかしゃべってるね」
「いいよ。聞いてるのは楽しいから。――無理、かけてないか?」
 穏やかに笑む中にも、憂えが含まれていた。
「あたし、は…大丈夫だよ。結構楽しくやってる」
 些細な問題の火種が燻ぶっているなんてことは、絶対に秘密だ。
 わざとらしくならない程度に笑顔を作り、真摯に瞳を向けた。
「おかげでね、自分の気持ちもいい方向に向かってるんだ。時間的には忙しいんだけど、充実感のおかげでかえって心にゆとりが出来た気がする」
「そっか。それなら、いいんだ。よかった」
「うん。ありがとね」
 大丈夫なのだと、安心をあげたい。良尚には、自分のことだけを考えていてほしい。人の心配なんて、しなくてもいいように。


[短編掲載中]