修羅場、というものを実際目にするのは、産まれて初めてだった。
 目撃したいなどという野次馬的なものがあったわけではなく、気づいた時には時すでに遅し状態で、動けなくなった。
 頭の中で様々なことをぐるぐる思案しつつ教室へ向かっていた時だった。階段を登っていて、踊り場で身体を進行方向へと転換し、話し声に顔を上げた時には、言い争いをしていた片方とばっちり目が合ってしまったのだ。
 全く見ず知らずの相手であったなら、さっと踵を返せばよかったのだが、ばっちり目が合った相手は、小峰だった。
 互いに気まずさ全開になりつつも、小峰が対峙している相手は相当興奮しているらしく、小峰の微細な変化にも気づかず喚いていた。小峰にしても華保に構う余裕はないようで、早々に対峙する相手に向き直る。
「彼はあたしの彼氏なんだから!うろちょろされたら目障り!!」
 噛み付きそうな勢いで捲くし立てている。半分正気を失っているんじゃないかと疑いたくなるような声音だった。
「うろちょろしてんのは、あんたの彼氏でしょ!?そんなに心配ならしっかり見張ってればいいのよ」小峰も負けじと言い返す。
 篠脇に聞いた情報だけで判断するならば、小峰に非はない筈だ。だからといって、ここで華保がしゃしゃり出るわけにもいかない。
 さてどうしたものか、と迷う間は、無かった。
 最高潮に盛り上がっていた場面に出くわしていたらしい。
「とにかく!近づかないでっ!!」吐き棄て、わざと肩をぶつけて去っていく。
 ぐらり、と小峰の身体が傾いだ。
「危ないっ!」
 反射的に、動いていた。
 手にしていた物が床に落ちる音や、小峰の悲鳴や、廊下に漂う喧騒や。一瞬に多種多様な音が綯い交ぜになり、途切れた。
 痛みが身体を走り抜ける。
「い…っつう」
 頭がぐわんぐわん廻る。
「小峰さ…ん?……だ、だいじょう…ぶ?」
 華保を下敷きに、二人諸共階段から転がり落ちていた。踊り場の数段上からとはいえ、機敏には動けなくなる衝撃だった。
 ひどく緩慢な動きで小峰は上体を起こし、状況の把握を試みるべく頭を振った。
 小峰に続きゆっくりと半身を起こし、俯いている顔を覗き込む。
「小峰さん…?」
「……なん、で?」
「え?」
「なに庇ったりしてんの!?」
 唐突に声を荒げられ、ぽかんと口を半開きのまま固まった。訊かれたとことで、華保にだって判らない。勝手に身体が動いていたのだ。
 さあ、と無言で首を傾げると、小峰の形相は益々苛立ちに染まった。
 派手な物音を聞きつけ人がちらほら集まり出したところで、チャイムが鳴った。近くにあった手すりに掴まり立ち上がる。一際走った痛みに顔をしかめてしまい、見咎められなかったことを確認し、ほっとする。
「授業始まる。行こう」
 何食わぬ顔で笑っても、小峰は返してくれなかった。ばっと立ち上がると無言で行ってしまう。
 場に一人取り残される形となり、溜息を一つ落として歩き出す。が、すぐに手すりに縋りつかなければいけない羽目になった。
「やば…」
 足元からきた鋭い痛感は、一気に華保の脳天まで駆けた。左膝が嘲笑うかの如く鼓動に合わせて脈打った。痛みもそれに伴う。
 どうやら左脚から床に着いてしまったらしい。弱い箇所に負荷はかかるもので。
 己の鈍臭ささに、溜息しか出てこなかった。


 陸上部の女子更衣室に滑り込み、ぱたんと扉を閉めた。誰にも見つからなかったことに、ようやと落ち着いた息を吐く。
 保健室へ行けば良かったのかもしれないと今更ながらに思うも、やっぱりこっちを選択して正しいのだと言い聞かせる。
 万が一にも伊織の耳に入ろうものなら、良尚にまで伝わりそうだ。それはやっぱり避けたいことで。
「えっと…。救急箱は、っと」
 庇いながら歩くのはお手の物。校内において華保の歩行が小さくびっこをひくものだと知らない者はまずいない。多少度合いが大きくなったからといって、それを気に掛け引き止める者はいなかった。
 所定の位置に収まっていた箱を取り出し、長椅子に腰を降ろす。
 湿布で冷やすべき?それとも、テーピングの方がいいかな。熱は持っていないみたいだし…。
 迷いつつ蓋を開け、いずれにしてもサポーターを付ければ見えないか、と苦笑する。だったら匂いのしないテーピングの方がよりいいかもしれない。
 必要なものを取り出して左脚を手当てし易い位置に持ち上げて、というところで、豪快に扉が開け放たれた。
 瞠目し、硬直する。授業をすっぽかしたのがバレたかと背筋がヒンヤリしたのも束の間、緊迫した形相で戸口にいたのは篠脇だった。
「ここ女子更衣室!男子は隣っ!!」
「知ってる!」
 怒鳴り声にも似た大音量。苦い顔で声を落とすように咎める。つかつかと進み入ってくる表情はむくれている以外のなにものでもなく。
「堂々とした覗きは初めてだよ。あたしで残念でした。しかも着替えてないし」
 威圧感ともとれる空気から逃げる術として、思わず茶化した。
「違う。歩き方変だったから」
「ひどい言われよう。傷つくなぁ」
 揶揄口調に篠脇の睨みが突き刺さる。
「違うっての!いつもと歩き方違ってたから」
「よく観察してんね。てか、観察されちゃってるんだ、あたし」
「ふざけてる場合かよ」篠脇は表情を崩さず、叱りつける口調だ。「俺は大真面目だ。なしたんだよ」
 勘繰っている様子が実直に見えた。
 一瞬、篠脇の指摘に怯むもすぐさま持ち直す。空とぼけ継続するしかない。
「なにが?」
「なにが?で誤魔化せると思うなよ?」
「んー…」考え込むふりをとる。必死に言い訳を捜すも、適切な言が思い浮かばない。「ちょっと衝撃与えちゃって」
「んなことくらい見りゃ判る!原因を聞いてるんだ」
「ガーガー怒んないでよ」華保は息を吐いた。逸らすように足元に視線を転じ、手当てを開始する。なるべく明るい声音を意識した。「階段降りてて、あと一段を見落とした」
 ふ、と陰がよぎったと思ったら、篠脇がしゃがみ込んで華保の手から一式を奪った。
「いーよ。できるよ」
 取り返すべく伸ばした手は、華麗にかわされ宙をきる。
「大人しく手当てされてろ」
「んと、ごめんね…?」
「後ろめたいことでもあるからごめんなのか?」
 はなっから訝しんでいる。苦笑が漏れそうになって慌てて引っ込めた。
「ううん。怒ってるみたいだから。一応、ね?」
「完全に馬鹿にしてるだろ」
 むっと眉を寄せても手つきは優しい。手際のよさに感嘆する。
「してないって。ていうかさ、今授業中、だよね?」
「知るか」
「…ありがと」
 あっという間に完了。きち、としているのに窮屈さはない。
「誰の仕業だ?」
「ぼけっと歩いててドジしちゃっただけだって」
 篠脇は全く信じてない風だったが、こっちとしても詳細を話す気は微塵もなかった。
「だけど、左でよかったぁ」
 能天気な華保の語調にも、その中身にも、納得いかないらしい。露骨に不機嫌な顔で鋭く見つめられた。
 怯まず語調を変えず、右脚を浮かせて上下に振った。
「だってさ、右までやらかしちゃったら両側松葉杖になりかねないんだよ?そんなん、不便極まりなしじゃない」
 睨みは続行だったけれど、篠脇はそれ以上訊いてこなかった。


[短編掲載中]