部活の最中も篠脇の視線は呪縛の如く華保に纏わりついていた。
 心配してくれているのは重々承知の上。だが、大会を目前に控えた調整時期に集中してくれないのは困る。
 ましてや、自分が足を引っ張る原因になるなど、あってはならない。
 かといって、素直に聞いてくれるんなら苦労はしないんだよなぁ。
 ファイルで口元を隠し、深く溜息を吐いた。
 ちょっと、疲れた…かも。
 日常の学校生活、部活、見舞い、夢の為の勉強。どれも削りたくなくて、全力でぶつかっていたくて、結局削ぐのは睡眠時間だった。
 その蓄積の所為か、足元がふわふわする。左脚が発する熱との相乗効果かもしれない。
「舞阪さん、休憩入っていーよ」
 部活開始以降、一箇所に留まることなく部内をウロウロしていた伊織がようやと華保の立つ場所へと還ってきた。
「…はい」
 まさに天の助け。あと数分遅かったら、しゃがみ込んでいた。
 体調不良を悟られないよう素知らぬ顔でゆっくりと校舎へと向かう。正面玄関まで廻るのが億劫で、体育館から入ることにした。隅っこを歩けば邪魔にはならないだろう。
 壁に片手をつき歩く。校舎へと続く出入り口をくぐったところで、速度を緩めた。
「華保っ」
 追いかけてきたのであろう方角――華保の真後ろ――から呼び止められ、振り返らずとも、相手は明白だった。
 ついと顔を上げ、振り返らずに、凛と声を張る。
「まだ走り込み終わってないでしょ。さぼり厳禁」
 気配が近づいて、真後ろで立ち止まる。
「こっち向けって」
 動いた空気で、篠脇の手が自分に伸びてきたのが判った。華麗にかわせるほどの余裕はなく、払い除ける動きになってしまった。篠脇の伸びていた手は華保のおでこに触れる。
 はなから目標はそこに置いていたらしい。
「あっつっっ!熱どんだけあんだよ!?」
「熱い…?」
 篠脇の手を押すようにして自身の掌でも熱を測ってみる。
 ふわふわしてたのって、熱があったからなんだ。
 自覚した途端、頭の中に靄が発生したみたいに不明瞭となった。かくん、と膝から力が抜け落ち、へたり込んでしまった。
「気ぃ…抜けちゃった、みたい…」
 へら、と笑う。ちゃんと笑いたいのに、機敏に動けない。
「あたし、さっきもこんなだった?」
「しっかりしてたよ。普段通りには見えてただろ、たぶん。誰も気づいてないっぽい」
「そか…、うん、良かった…」
 部員達は身体的にも精神的にも大会に向かって調整をしている。華保の立場にいる人間がふらふらしているところを見せるわけにはいかない。
「ふざけんなって、んなヘロヘロで。…ったく、休んでろ。いっちゃんには俺から言っとくから。帰り、送ってく」
「平気だよ」ゆっくりと深呼吸する。座り込んだ廊下が思いの外冷たくて、落ち着いてきていた。
「大会近いのにコーチがくたっててどーすんのって。皆は気づいてないんでしょ?だったら、篠くんは黙ってて。てゆーか、忘れて?」
 人差し指を唇にあてて片目をつぶる。
「おどけてる場合かよ!」
「また、怒られちゃった」
 壁と床に手をつき脚に力を込める。立ち上がることには成功したものの、ふらついて肩から壁にぶつかった。逆側からは篠脇の手が華保を支えている。
「休め!寝てろっ!フラフラしてん奴いたら集中できねーだろ!?」
「え、嘘。皆気づいて?」
「…じゃなくてっ」
 今日は篠脇を苛々させっぱなしだな、とぼんやり思う。疑問符を浮べ、見つめた。
「俺が集中できないっつってんだ!」
「…そうかぁ。コーチがこんな情けない状態だとまともな指導ができないとか、思ってんだ?」
 ちょっと待って、と大きく深呼吸した。ふわふわ感がほんの少し軽減した。大きく空気を吸い込み、気を引き締める。大丈夫、と言い聞かせる。
「よし。平気になった。戻ろ?」
 にっこり笑顔を作る華保に、篠脇は開いた口が塞がらない状態に陥っていた。
「篠くん?」
「そーとーニブイな、華保」
 呆れ返って、大仰な据えた目に少しむっとする。
「藪から棒に失礼な。そして呼び捨て禁止ってゆったでしょ。さー、戻るよっ」
 まだ、大丈夫。まだ、やれる。頑張れる。


◇◇◇


 陸上大会予選。
 天候は生憎の曇り空ではあったけれど、雨雲が停滞するような模様ではない。華保にとっては有り難い天気だった。それを自覚すると、自嘲するのは否めなかったのだが。
 伊織のはりきりの成果なのか、はたまた、練習メニューの成果なのか、昨年に比べて本選へ進む人数は増加していた。
 記録として形に残せる喜びを、部員達は味わっている。この調子でいけば、本選でもいいところまで食い込むことができるかもしれない。そんな期待が部内一帯の空気を湧き立たせていた。
 部員達の傍には伊織についていてもらうことにし、進行の遣り取り等の雑務は華保が引き受けた。本番では本来の実力から何割か削がれるものだ。気持ちのぶれはその作用が大きい。
 華保という存在が目に入る場所にいるよりは、落ち着ける者もいるだろうと判断してのことだった。勿論、和み系の伊織が近くにいることの効果はあるだろうし、こんな後ろ向き発言は誰にも言ってはいない。
 開始から午前中いっぱいは開催本部と打ち合わせや調整で慌しかったが、それも昼を過ぎる頃には落ち着きをみせた。本日最後の参加者の確認を本部で済ませ、華保の学校にあてられたベンチへ戻る途中、見知らぬ男に声を掛けられた。
 カメラを肩から提げ、手には掌サイズのレコーダーを持っている。スタンバイOKと意気込んでいる風でもある。
 同様の出で立ちの人物は会場内のいたる所にいて、将来有望と見込んだ選手の周りには数名が張り付いている情景を何度も目撃した。
 初め、声を掛けられた時には自分ではないと勝手に判断していて、周囲を見回した。が、近くには人の気配すら感じられず、男に向き直る。
「なんでしょうか?」
 部活の関係者である証の腕章をつけていて、それには校名も入っている。部内の誰かに用事だろうか。
「取材を受けていただけませんか?」
「取材、ですか。取り次ぎをする前に、顧問に相談してみませんと…」
 今大会で名を挙げはじめている高校への取材申し込みだろうか。又は、逸材の発掘に目をつけたか。誰だろう、などと男の顔を眺めて思考を巡らす。
 逸材、というのであれば、新記録更新を打ち出した篠脇だろうか。
「貴女に、ですよ。舞阪華保さん」
 男の口端に浮んだ笑みに、背筋が寒くなった。この口調は、あの時、幾度となく華保を襲ったものだ。一陣の風に過ぎない取材という名目の攻撃は、華保に不快な思いをさせるのに充分だった。


[短編掲載中]