たかだか数年前のこととはいえ、過ぎ去った話題を穿り返す種族とは思ってもいなかった。その種族にいる人間が自分を覚えていたことに、怖気が走る。
「お断りします。忙しいので、これで」
 直視してしまえば見えない手に絡め取られそうで、ぺこっとお辞儀をしたすぐ後、身を翻した。
 つつかれたら、心が掻き乱されるのは明白で。
「逃げることないでしょうに。ちょっと話をしたいだけだからさ」
 親近感を込めているつもりなのか、馴れ馴れしい口調にとって変わる。腕を掴まれ、逃げられなくなった。
 顔も合わせず、振り解こうと動いていることに一切構わず、男は容赦なく質問をぶつけてきた。望んだ通りの回答が得られないと判断すると途端に、詰問然としてくる。
「その脚みると、跳べなくなったってことだよね?当時の記事では確か、回復も可能とか、あった筈だけど…。どうして?」
 ――決まっている。それは己の弱さが生み出した結果。
「記録更新しか知らなかった無敵の選手だったのに。こうやってマネージャーの真似事してるってのはさ、未練があるってこと?」
 ――未練も後悔も、いつでも鮮やかに華保を責め立てる。
「跳べるかもって、もしかして思ってる?だからこうして陸上に関わっているの?」
 ――無理だって、判ってる。良尚との再会がなければ、このフィールドに戻ってくることなど、無かった。
「ねぇ、なんか言ってくんないと、想像で記事書くしかなくなっちゃうんだけどな」
 ――ヤメテ。穿リ返サナイデ。マダ痛イ。心ガ、抉ラレル。
「放して…下さいっ…!」
 痛い、痛い、痛い。
 触れないでほしい。放っておいてほしい。構わないでほしい。まだこんなにも、傷は膿んでいる。
 なおも食い下がる記者を相手に、どうしていいか判らなくなる。
 これに立ち向かわなければ、過去と決別することができない?
 この手を振り払って逃げ出すことは、永遠に過去から逃げ廻ることになるの?
 判らない。判らない。判らない。
 過去を過去として受け留め、前に進んでいきたいと願うのに。
「はな、して…っ!」
 目の奥が熱い。
「放せよっ!」
 衝撃があって、捕縛から解放される。あたたかな手が肩を抱いて、引力に寄せられた。見上げた先にあったのは、入沢の憤然とした顔。ぬくもりで、華保を庇う。
「なにやってんだよ、あんた」
 低く唸る。威嚇する獣のように、臨戦態勢をとっていた。
 安堵と共に、短く息が漏れた。
「なに、って。話聞いてただけだ」
 悪びれた様子もなく、さも当然のように記者は言う。
「嫌がるのを無理強いすんのが、あんたらの常套手段かよ!」
 膝が痛感を伴って震えていた。入沢が支えてくれる手と、しがみ付くことを許してくれなければ、その場で崩れていたかもしれない。
「嫌がってたんだ?」つらっと言ってのける。「そりゃ、悪かったな」
 謝罪の気配はなく、入沢の登場に急に鼻白んだ。だったらいいわ、と唾棄口調を置いて行ってしまった。
 しばらくは去っていく背中を睨みつけていた入沢も、華保が耐え切れず僅かに揺らいだことで意識を戻した。
「平気か?」
「……ありがとう」
 支える手をやんわりと離した。心配げに宙に浮いていた入沢の手も華保が微笑むと脇へと降りる。
「しっかし、なんだよアイツは!不躾にもほどがある。怪我とか、してないか?」
「うん、平気」
「…そっか。なら、よかった」
 華保を知る人が見つけてくれて良かったと思う。見ず知らずの人間であったなら、割って入る可能性は低かっただろう。
 入沢と並んで歩き出そうと動いて、別角度からの声に引き止められた。
「……入沢先輩」
 恨めしげに聞こえたのは、幻聴ではなく。
「マネージャー?」
 入沢は、マネージャーがその表情に忍ばせた意味を汲み取れず、きょとんとしていた。華保だけに向けられる敵意と呼べるもの。
 良尚の病室で向けられた時よりも遥に強靭になったそれを、惜しげもなく一直線に突き刺してくる。
「マネージャー?どうしたんだよ、んな、おっかない顔して」
「なんでこんな人、庇うんですか!?」
 荒げた声が響いていく。感情を実直にぶつけられて痛かった。
「おい!」
 入沢は出し抜けなマネージャーの言に戸惑っている。何が何だか明確なことは判らなくても、華保を庇うようにと一歩前へ出る。
 華保にしても、判っていなかった。
 目の前の人物にある面識は、良尚の見舞いにきていた時だけだったと認識している。
 敵意を剥き出しにされることをした覚えは当然なかったし、与り知らぬところでやらかしたことがあるのだろうかと考え巡らせる。
 入沢が盾になっていることで少し勢いを緩めたものの、視線を外そうとはしなかった。
「意味判んねーよ」入沢は呆れている風だった。
「護られるとか、許せないんです」
 どうして判らないのだ、と孕まれた語調が入沢に返される。そして再び矛先を華保にあてる。
「本当に、なにも、知らないんですね」
 心底辟易した様子だ。区切るようにして放たれた言葉に反応したのは入沢だった。制止をかけるよりも早く、マネージャーが槍声を放った。
「推薦が取り消しになったのは、貴女の所為でしょう!?」
 なにを、と開きかけて、口を噤む。

 取消?――推薦が。
 何故?――怪我の所為。

 ――その怪我を負わせたのは、この自分。


[短編掲載中]