悶々と燻ぶり続けた怒りが爆発する起爆剤はどこにでも転がっている。
 自身を囲む小さな輪に、華保は無表情なまま対峙した。彼女達にあった起爆剤がなんであったかを問う必要はなく、来るべき時がやってきたのだと覚悟を決める。

 本選に向けて更なる調整に気合の入っていた陸上部は、見た目も明らかなほど活気に満ちていた。
 練習をこなし終えた片付けの時間帯に、彼女達は接触してきた。
 伊織が職員室に呼び出され、常の慣習が如く纏わりついていた篠脇を片付けにと追い払った直後だった。時機を見計らっていたのだと、判る。
 これまでであれば空とぼけて丸く収めようと試みたかもしれないが、さすがにそこまで気持ちを持っていくことが不可能で。
 鋭利な視線がマネージャーと重なる。
「何故跳べもしない人がコーチなんですか。納得できません」
 大会も始まっているこの時期に何故、と問いたかった。だがすぐに、思い直す。大切な時期だからこそ、なのかもしれない。
 良尚の意図を知ったら、それに便乗したと知ったら、激昂するだろうか。
 華保を囲う輪の中に小峰の姿もあった。最前にいないのは、この前のことが少なからず関わっているのだろうと推量できるものの、参加するということは、やはり根底では同意見なのだ。
 それは、ひどくきついことだが、仕方のないことでもある。
「辞めろってこと?」
 華保の声に温度はなかった。自身に向けられる熱を吸収するかのように。
「実践できない人間なんて、必要ありません」

 必要ない。不要。――存在の、拒絶。
 ずっしりと深く衝き刺さる。

「周りをうろつかれると目障りです。指導を受けているの、情けなくなります」
「容赦ないね」
 苦笑を洩らす他ない。言われていることはもっともだと、華保自身が納得してしまう。
 でも、引き下がれない。
 ここは居場所だ。良尚が与えてくれた、華保の為の、居場所。失いたくない。
 深呼吸して、自身を囲む一人一人の顔を順繰りに見た。真っ直ぐに、怯まずに。
「逆にいえば…跳べたら、認めてくれるんだ?」
 上着を脱ぎ、ファイルと共に地面へ投げた。高飛びのバーに、正面から向かい合う。
 目蓋を降ろす。土の匂いが鼻腔をくすぐる。…懐かしい。全身で、感じる、懐かしさ。
「な、によ…。まさか…跳ぶつもり…?」
 そちらを見なくとも、囲う気配が怯んでいるのが判った。
 背筋を伸ばし、無言で肯定を示す。
 跳べるわけがない。頭では判っていた。長すぎるブランク。それ以前に、華保の脚では走ることすらままならない。
 だけど、引き返すつもりは無かった。このままでは気が済まない。これはプライドだ。
 奇蹟が起きて、バーを越えられたら、自分へのケジメになる気がした。――過去に、決別できる気が、した。
 走り出す体勢をとり、呼吸を整え、昔を思い出そうとしていた。忘れていない筈だ。きっと身体が覚えてる。
 目蓋の裏に、大会の光景が浮かんでくる。ざわめきが、歓声が、耳に蘇る。
 そっと視界を開け、バーを睨みつけた。踏み出そうと力を込めた時、器具をしまい終えた幾人かの部員の中から、飛び出してきた影が視界の端に入り込む。篠脇が誰よりも早く状況を察知して、制止を叫んだ。
「なにやってんだよ!」
 駆け寄ってくると、真っ先に華保の腕を掴む。一歩も動かせまいとした。
 黙りこくる女子部員達から視線を華保に移す。華保は真っ直ぐにバーを見据えたまま、動かずにいた。篠脇を見もせず、手を払い除ける。
「止めないで」
 外されてもなお、何度も掴んでくる。突き放した言い方をしても、頑として引き下がらない。
「脚、どうなってもいいのかよ!?」
 必死になる篠脇に、笑顔を向けた。束縛の力が緩んだ。
「優しーね、篠くん。でも…」
 触れている程度の力になった瞬間に手をゆっくりと外し、言い放つ。
「これはあたしの、問題なんだ」
 誰も止めてはならない。そんな気迫にその場にいた誰もが動けなくなった。地を蹴り、立ち向かう。
 バーを目指し、それだけを見て。
 助走の感覚も踏み切りのタイミングも、鮮やかなほどに思い描けた。身体は、覚えていた。目の前に迫るバー以外のものは、視界に入ってこなくなる。
 地を離れるという瞬間、大きな手が華保を掴んだ。抵抗する間もないままに、引き戻される。相手を確かめるよりも先に、怒号が落ちた。
 ばかやろう、と声を荒げたのは、伊織だった。直後、頬に熱が走る。
 快音が先だったのか、熱が先だったのか。じんわりと痛みを広げていく頬に、無意識の内に手がいった。
 伊織が初めて見せる怒顔に、怖いというよりは驚きが勝る。自分を見る伊織をぽかんと見上げた。
 唖然としているのは華保だけではなく、その場にいた全員が固まっていた。
 伊織は、周囲の部員の顔を端から端まで一瞥してから、再び華保の方を向き、息を吐く。
「誰か、説明してくれないか?」
 華保も、誰も、口を開こうとしなかった。
 ほんの少し冷静を取り戻せば、熱くなった己を恥ずかしく感じた。言いたい人には言わせておけばいい。鷹揚に構えてられなかった自分が恥ずかしい。
 こんなことだから、いちいち躓くのだ。
 跳べるわけがないと判っていて、勝負を挑んで、跳べなかった結果が残されていたら、華保は居場所を失うところだった。
「どういうことなのか、説明しなさい」
 厳しい口調でピシャリと言う。普段温和なだけに、伊織の対処に誰もが戸惑っていた。
 平手のおかげで頭の中は冷えつつあって、痛みが消える頃には完全に冷静さを取り戻していた。
 そして、代わりを務めるように、左脚が微かに痛みを持ち始めていた。意思にも懇願にも逆らって、膝は痛みを増長していく。自身を支えることが困難になる。伊織が掴んだままでいる手に、支えられてる状態になってしまっていた。
 かろうじて立っている状態に気づいたのは、篠脇だった。目が合って、すぐさま悟ったらしい。誤魔化す為の表情は間に合わなかった。
「いっちゃん、理由は別の場所で話すよ。行こう」
 篠脇はさも掌握済みだと振る舞う。華保を挟んで伊織の対極に並ぶ。背中を軽く叩かれ、歩行を促された。
 しっかりと歩かなければ、と願うのに、華保の脚はすでに微動だにすることも拒絶した。
 呆気なく、地面に崩れ落ちる。掌にざらりとした感触があって、視界が歪んで見えていた。
 慌ててしゃがみ込む伊織の袖を握り締め、激しく痛みを持つ左脚を睨みつけた。声が出せなかった。大丈夫の一言が言えない自分が、惨めだった。


[短編掲載中]