部室の裏、校庭からは見えない位置まで移動して、華保は木陰に座らされた。篠脇は傍らにしゃがみ込んで目線を合わせていたが、伊織は仁王立ちのまま見下ろしている。
「どういうことなんだ」
 珍しい口調の伊織を前に、謝罪を口にする。頭を下げ、そのまま静止した。目を合わせれば理由を述べなければならなくなる。できれば回避したいと思っていることを承知済みのようで、伊織は再度同じことを繰り返した。
 黙って、見逃してはくれないらしい。
「あたしが勝手に、無茶しただけです」
「いっちゃんさ、部内の空気、気づいてた?」
 被せるように篠脇は口を開いた。止めようとする華保に制止をかける。
「やっかみだかなんだか知らねーけど、陰口とかあったんだ。さっきのはそれが表面化したってこと」
「篠くんっ!」
「そうだろ?華保。黙ってたって、あいつらを調子に乗せるだけだ」
「……本当なのか?」
 伊織は、にわかには信じ難い、という面持ちだ。
「本当なんだよ、いっちゃん」
 黙然とする華保に代わって篠脇は溜息混じりに吐き出した。
「話、してくる。ここは任せてもいいか?」
 篠脇に向かって言うや方向転換する伊織を華保は咄嗟に呼び止めた。
「良尚には、言わないで下さい。…余計な、心配かけたくないんです」
 振り返っていた伊織は瞠目し、緩やかに表情を崩した。言わないよ、と残し、足早に陸上部の方へと戻っていった。
「こんな状況でも他人の心配かよ」
 篠脇は辟易とも憤るともとれる大仰な息を吐き、華保の横に腰を降ろした。
「膝は?保健室行くか?」
「休んでれば落ち着くから」
「俺、冷たいもん買ってくる。リクエストあるか?」
 立ち上がってお尻を叩いて掃う篠脇を見上げ、首を横に振った。ごめん、と呟くと笑み崩れ、幼子にするように頭をぽんぽん撫でて走って行った。
 思いの外優しい手つきに触れてしまい、鼻の奥がツンとする。抱えた膝に顔を埋めた。
 自棄を起こしていない、とは言えない。腹立たしくて何もできない自分に嫌悪する。
 こんなことやってたって、解決なんて望めないのに。
「――舞阪…?」
 びくり、と肩が揺れた。幸い、泣き出してはいなかったので何食わぬ風を装って声の方向を見遣る。近づいてくる入沢は、不可思議そうに首を傾げ、校庭の方向を気に掛けている様子で近づいてくる。
「部活の方で、なんかあったのか?伊織センセ、珍しく叱り飛ばしてた」
「ああ…うん、ちょっと…」
 歯切れ悪く濁す華保を気遣ってなのか、それ以上言及しようとはしなかった。
 舞阪は休憩中か?ここ、涼しいな。いい場所見つけたな。そういや本選に進んだメンバー結構いるよな?やっぱコーチのおかげか?半分は俺の功績だよなー。てか、ライバルに加担してることになるよなぁ。やべぇ。でも、当日は負けねぇよ?
 ろくに相槌も打てずに沈む華保に構わず、正面に座った入沢はしゃべり続けた。
 ついさっきまで晒されていた刺々しい空気から解放され、かつ入沢の気遣いに満ちた対応に包まれていると、内奥の弱い部分を刺激されてしまう。
 どうにも耐え切れず、かといって泣き顔を晒したくなかった。腕に顔を埋め、唇を強く引き結んだ。
「舞阪…」
 途端、萎んだように入沢は口を閉ざす。
「…ごめん」
 くぐもった声になった。入沢にきちんと届いているかも確信が持てないほどの。
「舞阪?」
 戸惑いが、空気の振動で伝わってくる。
「ごめん、入沢くん。一分だけ…」
 こうして泣くことを、許してほしい。
 入沢相手に露呈させてはいけないと、判っていた。判っていたけれど、堪え切れなかった。
「うん、いいよ」
 戸惑ったまま、いくらでも待つよ、と言ってくれた。その声が優しくて、あまりにも柔和で、余計泣けてしまった。
「あたし…」依然顔を上げられずに、くぐもったまま、発した。一人ではもう、抱えきれない。
「…あたし、は…支えになるどころか、妨げにしかなっていない」
 入沢からの空気に変化は感じられなかった。沈黙を守り、耳を傾けている。どれを指しているのか、入沢にも判っているだろう。
 ――先輩から空を奪ったんです!
 良尚にきっかけを与え、楽しさを教え、それを奪った。
 突きつけられた真実。良尚が頑なに隠そうとした事実。護られているだけの自分。奪っておいて、何もできずにいる自分。
 存在価値が無いばかりか、障害にしか成り得ない自分。
 夢だと言ってくれた。楽しいのだと笑ってくれた。感謝しているのだと。
「――…潰したく、ない…」
 本音を言った心はあまりにも正直すぎて、感情のままに涙が流れていた。我慢することも出来ずに。
 無理に押し込めようとするのを突き破って、一度しゃくりあげてしまったら、止めようがなくなる。こうして泣いていいのは自分じゃないと知っているのに、止められない。
「舞阪さ、」
 そっと、入沢が呼ぶ。どんな時よりも、柔らかく。
「舞阪さ、あいつ、なんて言ってたか知ってるか?」
 なんの話なのだと問い掛ける間もないまま、入沢は続ける。
「憧れの選手だったんだ。それは、俺も一緒なんだけどさ。――あいつ、後悔してないよ。ハイジャン始めたことも、舞阪に再会できたことも」
 励ましてくれているのだと、判る。それに甘えてはいけないことも、知っていた。
 小さく首を振った。入沢の優しさが痛くて、涙が止まらない。
「俺の方が先に舞阪を見つけたってのに、東郷は、公言同然に話すんだ。照れ臭そうだったり、自慢げだったり。俺はその度にむかついてたんだ」
 懐古を楽しむように入沢はささやかに笑ったが、華保は動かないままだった。
 涙でぐちゃぐちゃに濡れた頬に、入沢の指先があたる。もう片方の大きな掌が、頭に触れた。ふんわりと撫でる。
 直後、髪越しに柔らかい感触を落とされ、それが口付けだと判る。
 戸惑い、顔を上げた時には、もう入沢の顔は間近にあって――
 状況把握も抵抗もままならないまま、今度は唇に優しい感触が落とされた。
「舞阪、泣かないで…」
 ぎゅう、と少し息苦しいくらいに抱き締められ、華保は動くことができなかった。


[短編掲載中]