いつの間に、こんなことになったのだろう。
 確かに酒類を扱っている店ではある。居酒屋という分類であるし。その選択がまず、間違っているのだ。ほとんどが現役合格しているクラスであれば大半が未成年だ、ということを幹事が知らないわけはない。
 初めは、そう本当に始まりの乾杯は、ノンアルコールのジュースやらお茶だった。時間の経過とともに場が盛り上がっていったのは、趣旨通りの運びで。
 華保が気づいた時には、空気中にアルコールの匂いが漂っていた。二十畳ほどの小上がりにやたら陽気な人が増えたな、と改めてクラスメイトを見回してみたら、隣に座っていた外岡が「どうやら酒盛りに移行したみたいだな」と呟いた。
「みたいって…。止めなくちゃいけないもんじゃないの?こーゆう場合」
「俺もさっき気づいた。で、すでにあんな状態だったら止めても無駄。まー、無茶飲みしてる奴、今んとこいないし、楽しそうだし、いいんでない?」
 あっさりしたものだ。たぶん外岡はアルコールが入った瞬間を知っている。知っていて放置した。たぶん、その方が場の和み速度がいいことを判っているからで。
「意外と真面目ちゃん?」
 華保の思考を嗅ぎ取ってか取らずか、興を含めた瞳が見つめてくる。
「見つかったらオオゴトになるなーって思っただけ。脱兎のごとく逃げられない身としてはさ。避難経路確認しとかなきゃな、と」
 冗談めかして出口の方角を指差す。「それと、意外と、は余計」
「そりゃ失礼」
 軽やかに笑う。笑顔はどんな時も一緒だな、と思う。
 足のことを打ち明けてきた時もそうだった。周囲に人がいても誰かの耳を気にする様子もなく、天気の話でもするかのような軽やかな告白だった。同志だな、と差し出された手と、抵抗を覚えず握手を交わした。
 別に隠すことでも恥ずかしがることでもないのだから、と言っているように聞こえ、心のどこかで常にそう考えていた自分を見つけられた気がして、恥ずかしくなった。
「でも、そうか」
 明るいが妙に納得した口調だ。真面目な顔つきをいかにも作っています、といった表情で、華保の発言が冗談だと判っているのだと知れる。
「逃走経路は確保しとかんとな、俺らは」
「なによぉー、お前らぁ、抜け出す相談でもしてんのぅ?」
 半分眠りに落ちているような間延びした声が割り込んだ。二人の間ににゅっと顔を出したのは、外岡の高校時代からの友人である寺崎だ。
 二人はできちゃてんのぉー?と、にやけ顔はまるで酔っ払いの中年男性みたいだ。実際、吐息からアルコールの匂いがぷんとした。
 肩に圧し掛かる友人の重みを心底迷惑そうにしながら、外岡は露骨に顔をしかめた。大体の人には人当たりがいいことで好評価な外岡も、一部の人間にはぞんざいだ。寺崎はそちらに属している稀少な一人。仲いい故の無遠慮な関係、と華保は勝手に解釈していたりする。
「酔っ払いはくんな」
 外岡は冷淡に友人の身体を押しのけた。のらりくらりと揺れながら、不満げに頬を膨らましても懲りずに外岡に寄り掛かっていく。外岡はそんな友人に辟易して見せ、ひと睨みきかせた後、華保には目顔で謝罪を述べた。
 酔っ払ってないのらー、と断言するその口調こそが酔っていると象徴していた。
「あのなー。俺はなー、これをお届けに…あがった、のらぁ」
 テーブルに置かれたのはオレンジ色を帯びた黄色い液体が満たされたグラス。からん、と氷が涼やかに揺れた。
「舞阪のぉー飲み物がぁ、無くなるぅ…」
「あ、ありがと」
 とろんとした双眸が、礼を受けて嬉しそうに細められた。とはいえ、華保のグラスにはまだ半分ほど烏龍茶が入っていた。
「用件済んだろ。あっち行け」
 外岡のしっしと払う仕草をじっと見つめたのち、寺崎は再び華保の方に顔を向けた。
「舞阪ぁ、あのなー。聞いてるぅ?舞阪さぁ」
 外岡に構ってもらえないと判断するや、標的を変えてきた。いくら酔ってるとはいえ、無下にするのも憚られ、愛想笑いを浮かべつつ身体を仰け反らせて僅かばかりの距離を作った。目が据わり気味で、警戒するにこしたことはなさそうだ。
「やめろって、寺崎。あっち行けっての、馬鹿。――舞阪、まじゴメン。酒癖悪かったんだな、こいつ」
 問題ないよ、の意を込めて首を横に振る。
 素面の寺崎とは面白いほど人間性が違っていた。お酒の影響力は甚大だ。恐ろしい、ともいう。
 酔って上機嫌な人間は饒舌になるらしく、話を聞いてもらいたがる傾向に走るものらしい。少なくとも、寺崎は。
 それが自分のことでなく、友人のことでも。理性の吹っ飛んだ状態では分別はつかないもので。
「ふられちゃうんだよねぇ、こいつぅ。すっ…んげぇいい奴なのにさぁ。…なあ、舞阪だって知ってんだろー?外岡はぁ、いい奴なんだよぉ…。なのに、ふられちゃう…のだ…。舞阪さぁ、舞阪なら…判ってくれるよ……なぁ…?」
 言うだけ言って、外岡に寄り掛かったまま目蓋を閉じてしまった。中断させようとした外岡の声は寺崎には届かなかった。真っ直ぐに華保だけを見て言い切ると、満足気な表情ですうすうと呼気を立て始めた。
「寝ちゃった、ね?」
 信じらんねぇ、と外岡は苦々しく吐き捨て、全体重を預けている友人を畳の上に転がした。
「ほんと、ごめん。たわ言だって聞き流しといて」
「ほんとなの?寺崎くんが言ってたこと」
 ずっと心に留め置いていた言葉なのだ、きっと。お酒の力でそのタガが外され、表面に零してしまった。
「……こいつが最後に言ってたことは、ほんと、気にしなくていいから」
 外岡は居心地悪そうに言う。数秒躊躇って、「ふられてばっかなのは、ほんと」と付け加えた。
「そっか…」
「…うん」
 そこに、楽しい事情があるわけはない。追求する必要も意味もなく、ましてや、気持ちが判るよなどと軽々しく言える筈もない。寺崎が華保に何を期待したのか、判らなくもないけれど、外岡がそれを期待しているとも思えなかった。
 結局、華保にできることといえば、口を噤むくらいで。無言の間をもたせるためにグラスに手を伸ばしたのと同時に、同じくグラスに手を伸ばしていた外岡がそれを持ち上げることなく言った。
「足がさ、こーゆうのって案外注目集まるよな。付き合いだしてすぐの頃なんかは、そんなのより一緒にいられることの楽しさが勝るってゆーか、気になんないもんらしいんだけど。…確実に、蓄積してんだよな。色々冷静に考えられるようになると、見えてくるってゆーか。で、視線感じたり、時には笑う奴とかもいたりで、積み重なっていくと……段々嫌に、なる」
 外岡の唇にグラスの縁が当たったけれど、飲まずにそのまま元の位置に戻した。華保は、うん、と相槌を打って、耳を傾けていた。周囲の雑音が、遠のく。
 脳裏に描くのは、自分と良尚だ。手に取るように思い描ける。現実としてある情景は、望まない現実で。
「俺といる限り一生付き纏う不快感なんだ。気にしないと言えるほど、大人になりきれる歳でもなくてさ。そうなるともう、サヨナラってわけだ」
 グラスの中の氷が音を立てて、水面を波立たせた。側面についた雫が、周りを巻き込んで滑り落ちていく。
 淡々と、冷静すぎるほどに静かに言って、グラスをぐいっと持ち上げ外岡は液体を喉の奥へと流し込んだ。
「正直、誰かを好きになるの、怖くなるよ。また、って思うと、やっぱ尻込みしちゃうっていうかさ。…挙句、俺は不要な人間か?とか思ったりもする」
「根暗、だよね〜」
 何も返せず黙るしかなかった華保の代わりになのか、いきなり寺崎が復活した。実は寝てなかったか、あまつさえ、酔ったふりすらしてたのか、と疑いの眼を向ける。先と変わらず目は据わっていた。今にも閉じてしまいそうだった。
「お〜ま〜え〜は、煩い!寝てろっ」
 頭をがっちり鷲掴みにされた寺崎は、畳の上で押さえつけられる格好で寝転がされた。数秒後には寝息らしきものが聞こえてきて、外岡は手を外すと困ったように笑う。
「悪気はない。それは判ってるんだ」
 照れ臭いのだと知れた。きっと寺崎はこうやって、外岡の支えになってきたのだ。
「うん。そうだね」
 端的だった空気が解かれて、少しほっとする。寺崎が持ってきてくれたグラスを傾けた。色から判断するにオレンジジュースかと思えば、想像したよりも甘みが強い。桃と混ぜ合わせた味がして、飲み易く美味しい。
「世の中にとっても、誰にとっても不要。とかまでは流石に思わないけど、誰かにとっての不要な存在、とは思ったりする。――うん、確かに根暗だな、これは」
 友人の言を租借して小難しい顔つきをとって、それから笑った。合わせて華保も笑みを浮かべたが、心には陰が落ちていた。
 まさに自分が抱えてきた不安、これからもあり続けるであろう危懼だった。――共感してしまいそうになる。
 良尚のことは信じている。でも、絶対は有り得ない。かたちあるものでも姿を変えるものなのに、目に見えないものが変化しないだなんて言えないのだ。


[短編掲載中]