「俺は女運が悪いだけ。みんながみんな、そうだとは言ってない」
「え?」
「不安で仕方ないって顔、してる。舞阪の彼氏なら、大丈夫そうに見えたけど」
 本屋で会った短時間だけで判断しているのだとしたら、あまり根拠のない推察に思える。
「話で聞いてる情報からの推測と、実はさ、ずっと前にも見かけたことがあるんだ」
 含みを込めた表情だった。華保の思考を綺麗に読み取った回答に、苦い気分になる。また、思考が表面化してたらしい。
「……パン…の、きみ…」
 明らかな寝言口調が割り込み、主を見下ろす。食べ物を噛み砕くが如く数回もごもごと口を動かし、それが停止すると同時に安穏とした寝息をかきだした。
「今のって…完璧寝言だよね?」
 外岡と顔を見合わせ、堪らず噴き出す。寝ながらでも寺崎は会話に参加する。
「恥ずかしい奴だな」
 外岡は笑いを噛み殺し苦く言う。
「パン、って、寺崎くんの好きなもの、とか?」
 にしては「きみ」の意味がよく判らない。寝言なのだからまともに解釈しようとするのが間違いとも言えるけれど。
「舞阪が通ってた高校と駅の間にパン屋なかった?通学路の途中」
 外岡が口にした店名で、店の外観と看板が脳裏に浮かぶ。よく立ち寄っていた店だ。知らない者はいない、というほどに校内では有名で、それほど広くない店内は、下校時間帯ともなれば制服姿で溢れかえっていた。
 部活を終えて帰宅する頃にはお腹の虫は大騒ぎで、つい店の扉を開けてしまったことが度々だった。
「よく行ってたよ、そのお店」
 共通の話題を発見すると何故だか妙に嬉しく感じる。距離がぐんと縮まる感じだ。
「俺ん家から近いんだ。で、バイトしてた。その時に舞阪のこと見かけてた。たまに彼氏と来てたろ?たいていは店の外で待ってて」
 よく覚えているものだと感心する。
 自分で言うのも物悲しいけれど、格段に見目を惹く容姿ではない。これといって特化すべき点など皆無と言っていい。あえて特徴と呼ぶなら、左脚くらいのもので。
「覚えているのにはワケがある」外岡は得意げに見えた。
 本当に、そんなにも心で思ったことが顔に出ているのだろうか。苦笑を漏らしつつ曖昧に笑っておく。課題だな、と心の隅に書き留めておいた。
 ワケとやらは教えてもらえるの、と口を開きかけて、急速に眩暈を覚える。吐き気のあるタチの悪いものではなく、むしろ身体が浮かんでいるような心地いい感覚。目の前の情景がくるりと回転し、身体が傾ごうとする。テーブルの端を掴んで体勢を保とうと努力するも、手が届かない。間近にあった筈なのにおかしい。鼓膜に膜が張られ、隣にいる外岡の声が遠かった。
 遠ざかったのは声や周囲の音や物。――実際には、華保の意識の方だった。


◇◇◇


 原因は、寺崎が運んできたカクテルだ。確信犯なのか天然か確かめるべくもなく、当人は酔いから未だ醒めやらぬ状態で、道端にしゃがみ込んでいる。
 舞阪華保は恐ろしいほどに酒に呑まれていた。
 一気にグラスの3分の1ほどは飲んだにせよ、居酒屋にあるカクテルなどジュースとまごうほどのアルコール度数しかない。が、それでも、話している真っ最中に意識を飛ばすほどに弱かった。
 一次会がお開きになり店を出て、歩道にたむろする集団と化していた。通行人の邪魔になると、外岡を含む数名で注意はしてみるのだが、いかんせん人数が多い。しかも、大半がアルコールに通常の意識を麻痺させられていては、聞く耳など持っているわけもない。
「舞阪?平気?」
 外の空気を吸えば少しはましになるかと期待していたのだが、たいした変化は見られず。かろうじて起きているような状態だ。店の入り口付近の壁に、寄り掛かって立っている。
「なぁに?」
 とろんと溶けかけの瞳が、鈍重に外岡を捉えた。んー、などと、呻きとも寝惚けともとれる発声をする。唇が閉じられたまま横に伸び、笑みの形になる。機嫌は大変よろしいらしい。
「平気か?」
 問いを繰り返されたことにも気づいてない。じっとこちらを見上げてくる様子は幼く映る。こっくりと頷き、にっこり笑う。へーき、と呟く。
 どこが平気なんだ、とは突っ込まない。
「俺さ、舞阪送ってくわ」
 みなをまとめようと躍起になりながら二次会の相談を周囲としていた幹事の袖を引っ張った。ほとんどの者が耳を傾けないまとまりの無さに辟易した様子で幹事が聞き返す。酔っ払い集団は煩い。声が聞き取れなかったらしい。
 耳打ちするほどに顔を近づけ同じことを繰り返し、理由を加えた。
「阿呆が舞阪に酒飲ませたのに気づかなかった責任あるし」と、今にも道路に寝転がりそうになっている寺崎を指す。
 収拾つかない場から舞阪を連れ出すのは容易だったが、変な噂が立つのは勘弁だ。幹事にことわっておけばあとあとの問題回避は簡単に済む。
「あー、だめだめ。華保には彼氏いんだよ?」
 幹事の方を向いている隙に華保を支えに寄ってきたのは、華保と一緒にいることの多い、常時姉御肌の小春だった。なにかと面倒見がいい性分だ。入学してからの知り合いだが、昔ながらの友人と勘違いしてしまいそうな人付き合いをする人物だった。
「知ってるけど」
 小春の言わんとする意図が読めない。それがなんだというのだ。
「え、判んないの?」
 素で驚かれても判らないものは判りようがない。馬鹿にされたようでもあって、少しむっとくる。勿論表情には出さない。
「男に送ってもらってさ、誤解招いたらどうすんの?」
「誤解なんかしないだろ」
 嘘だろ?送ってくくらいで?とは言わない。
「一応面識あるし、そーゆうタイプじゃないよ、たぶん。ついでに言っとくけど、彼氏持ちは圏外。よこしまな気持ち、湧きもしないし」
「外岡がどうとかじゃなくてさ、気分のいいもんじゃないって」
「そういうもんか?」
 説き伏せてまで送りたいわけでもない。単に友人が招いた事態に対する罪悪感みたいな責任感みたいな、曖昧としたものがあって提案したまでだった。
「誤解は…やだ、ぁ…」
 半分眠った状態の華保が反応する。はいはい、ごちそうさまです。と言いたくなる。
 外岡には理解しがたい部分ではあるが、女というのは本当に恋愛話が好きな生き物だと思う。華保は自らすすんで彼氏話をするタイプではなかったが、聞かれれば律儀に答え、いつでも幸せそうに語る。たぶん、本当に幸せなのだろうとは想像がつく。
 高校時代、アルバイト先のパン屋で、一緒にいるところは何度か見かけた。そして、その様子を見かける度に、思うことがあった。
 それに華保が気づいているのか気づかないふりをしているのか、幸せそうに笑むのを見ては、外岡は判断し兼ねていた。結論を出すのが必ずしも誰かの為になるわけではないことだけに、あえて触れることはしていない。平たく言ってしまえば、外岡には関係のないことでもあるからだ。おせっかいで首を突っ込む性質は持ち合わせがない。
 自慢の彼氏なんだね、というひやかしに華保は素直に肯定を返す。その肯定の奥底に、恐れとも呼べる、自分と共鳴できる暗いものを持っていることには、気づいていた。
 どうにかしてやりたいだの、するべきだのは、考えない。
「どうすんだ?寺崎みたいに置いとくわけにもいかないだろ。かといって、途中で眠られでもしたら担げないだろ、女の力では」
「あんたって寺崎には厳しいよね」小春に不快な様子はなく、むしろ面白がっている風だ。「これ、なーんだ?」 
 見えるように持ち上げられたのは携帯電話だった。
「さすがー、と褒めて?」と、得意そうにする。
 誰かが所有していたな、と記憶を探る間に答えが続けられた。
「これ、華保の。拝借してかけちゃった」
 悪戯した子供じみた顔つきになっている。誰に、と聞くまでもない。
「迎えにくるって?」
「ふたつ返事だったよ。迷惑かけた、って謝罪の言葉までいただきました」
 小春の感心した風な報告に、外岡は「偉いな」と同意を示しておいた。合わせておくのが空気を読んでるってものだ。
 本音はどうだかな、なんてことは口が裂けても言わない。
 協調、同調、軟調、平調を心がけていれば、たいていのことからは爪弾きにされることはない。足を失って、学んだことだ。
「いつくらいになる?迷惑集団は先に二次会に行ってもらうとして、遅くなるようだったら誰かが一緒に待ってないとマズイよな」
「だぁい、じょおーぶ、だよぅ?」
 華保が割り込む。寺崎二世じゃないか、と笑えた。
 はいはい君は休んでなさい、と肩を叩いて宥めておいて、小春は時間を確認してから外岡に向き直った。
「たぶんもうすぐじゃないかな、さっき駅出たって連絡入ったから」
 手にしている携帯電話を、そうすることで彼の愛情が振り撒かれるとでもいうように振った。
 舞阪華保の彼氏像は、これまでの話を集約してみれば、非の打ち所のない人物が出来上がっている。おそらく、仲間内の認識は共通していた。
 外岡にしてみれば、そんなのは虚像だ。完璧な人間など、存在しない。完璧に近い人間も、いない。
 白けた声が出るよりも前に、小春が持ち上げていた携帯電話を更に高みに掲げ、先ほどよりも大振りし出した。判ったっての、と言おうとして、先ほどとは意味合いが異なる所作なのだと気づく。
 場所を知らせているのだな、と同じ方角を振り向いて、人波を器用にぬって近づいてくる人影を認めた。思わず、顔をしかめていて、慌てて人好きのする表情に変化させた。


[短編掲載中]