舞阪華保の彼氏登場に、ちらほら目線が集まりだす。人ごみの流れの中にあって、擦れ違う見知らぬ者たちからも、彼に向けられる視線はある。
 あの時も、そうだった。
 彼は、周囲の目線が向けられることを何食わぬ顔で突き進んでいけるタイプなのだ。自身に向けられるそれらを、好意的なものばかりだととれるからなのか否か、そんなことは、外岡にはどうでもいいことだった。
 だが、おそらく本人は知っている。それらのほとんどが好意的で、羨望や感嘆のものであることを。そのような者の隣にいる者に対して、人々がどのような目線を向けるのかを。
 値踏みだ、と外岡は受け取ってきた。己よりも低劣かどうかを、見極めるのだ。健常者の隣にいる者に向けられるのは、そういう類。十中八九眉根を寄せるのだ。憐れみ的な、嫌悪的なものを。
 身体のパーツひとつが違われているというだけで、容易く「自分たちとは異なるもの」とレッテルを貼りたがる。
 そのことに気づかないのは、レッテルを貼る者たちと同罪だ。外岡は、良尚をそう評価した。
 例えば彼女と一緒にいて、彼女に向けられるのが自分のとは異なる――いわば負の部分に向けられていることに、気づきもしていない。気づいていたとしても、どんな類の目であろうと、意に介さない。自分に無害ならば、関係無いといわんばかりに。
 あの時の彼は、少なくとも外岡には、そう映った。
 考えられないことであったし、怒りを覚えるものだった。露骨に庇えとは言わない。自分が同じ境遇であるから、彼女が望まないことだと判る。けれどそれは、無関心でいることと、同義ではない。
 人の顔がはっきりと判別可能なところまで距離が縮まって、外岡に気づき、良尚は小さく頭を下げた。
「…どうも」
 無愛想極まりない自身の声に、驚く。内面で考えていたことが表面化していないだろうかと、懸念する。が、応えた良尚の表情を見る限りでは、問題なさそうだった。
 すぐさま外岡から視線を外し巡らせたので、些細なことに構っていられないのが実情だったのだと察せられた。一直線に良尚に向かって手を振る人物を見つけ、歩み寄っていく。
 挨拶もそこそこに、酔い潰れてしまった華保を見下ろし、困ったように慈しむ双眸で笑う。人を惹き込む微笑みを前に、内側が冴え冴えと冷えていくのを感じていた。
 実直に今の感情を吐露すれば、僻みだの嫉みだのと一笑に付されるのだろう。だが、違う。そう単純に決め付けられるものではなかった。
 華保が心の奥に潜ませている暗い部分を共鳴できるのは、同じ境遇にいる者だけだ。
「いーらーなーいぃ」
 華保は子供じみた語調で、掛けられようとする良尚の上着を突っ撥ねていた。押し返されても良尚は怒る様子もなく掛け直す。いつの間に脱いだのか、華保はキャミソール一枚になっていた。いくら日中はだいぶあたたかくなってきた季節とはいえ、夜は気温も下がる。あれでは寒い筈だ。当人はアルコール効果もあってか、そうは感じていない様子で不満げに、むー、と唇を尖らせていた。
「じゃあ、連れて帰るから。連絡ありがとう」
 夜空の下、人工光の中でも背景に青空が広がって見えた。これが舞阪の言ってた『太陽が咲くような笑顔』か、と思う。向けられるだけで元気をもらえるのだと、自分のことを自慢するかのように嬉しそうに語っていた。
「せっかくだからこの後一緒しない?みんなで二次会行こうってなってるんだ」
 小春の提案に、周囲にいた女子は賛同とばかりに頷く。それを聞きかじった男どものしかめっ面が対照的で滑稽だった。
「迎えにきただけだから、帰るよ。ここまで出来上がってるとは思ってなかったし」彼女が酔わされたことに腹を立てている感じはない。「華保、歩ける?」
「うん…。だぁいじょぉうぶ」
 支えの主を見上げ、ゆっくりと笑む。蕩けそうな笑みだ。
「ん。大丈夫だな」と、少しも大丈夫と思ってない言い方をされても、言葉の意味だけで満足そうに華保は笑みを深くした。
「このまま華保を帰しても怒られるよ?しばらくうちらに付き合って醒めるの待つってのはどう?」
 小春は食い下がる。心なしか、後ろに控えていた女子軍団も前のめり気味だ。
 たぶん、粘る理由は下らないことだ。大方、華保が酔っ払っている隙に情報を仕入れようとか、目の保養を、とかなんとか。
 いや、と若干気圧されている良尚に小春は「華保ばっか独り占めはずるいじゃない」などと断言する。口に出すならもうちょっとましな理由挙げろよ、とは思っても声にはしない。
「だぁめ、らよー?小春ちゃーん。彼はぁ、彼氏…なんら、からね、ぇ」
 一斉に声の主を見下ろし、彼氏に抱きつく華保の酔っ払いつつも真剣な顔に、一同吹き出す。素面では絶対に見られないであろう姿に、得した気分にさえなる。
「あたしの、くらい入れりゃいいのにな」と、傍観態勢を崩し、良尚に意見を求めてみた。
 どう返したものか、と困った苦笑が返事だった。
 ちなみに、いつまでも歩道のど真ん中を占領するのはよろしくない、なんてイイコの心意気があったわけでは決してない。
「舞阪のことは彼氏に任せて、俺らは二次会行こう。まじ、邪魔くさい、この集団」
 小春の背に手をあて、二次会へと移動を開始した集団に押し込む。じゃあな、と目配せすると、良尚は華保を抱えて外岡に歩み寄って声を低くした。
「ありがとう。助かった」
 爽やかなのって鼻につくな、と表面に出ないよう気を配る。口端を持ち上げて笑おうとしたのだけれど、どうにも巧くいかない予感があって、結果、片眉が持ち上がってしまった。
「俺、ずっと舞阪の隣に座ってたのに酒飲むのに気づけなかったからさ。せめてもの侘びだよ」
 挑発的ともとれる物言いに、けれど、良尚の態度は変わらなかった。再度礼を述べ、外岡たちとは逆方向に歩き出した。
 ほんっと、いけ好かねぇ!
 第一印象って尾を引くものだと、妙な感心すらしてしまった。


◇◇◇


 外岡が華保と知り合ったのは、高校の時だ。否、知り合った、というほど互いが同等なくらい存在の認識が強まったわけではなかった。現に華保は、大学に入学して顔を合わせた外岡を初対面として扱った。
 ひとつの出来事が印象に残るかどうかは、受け取る側に委ねられるものだと悟った瞬間だった。

 店内はまさに押し競饅頭を絵にしたような混雑状況だった。近くの高校の制服で溢れかえっている。トレイとトングを持って陳列されたパンを順繰り眺めている姿は、一様に楽しそうに映る。美味しそうなものを目の前にすると、人間は柔らかい顔つきになるものらしい。
 外岡は家から近いという理由だけで選んだバイト先に入ったばかりの頃で、主に雑用をしていた。その中に、厨房から焼きあがったばかりのパンを陳列していく作業があって、その時も商品を並べるために店内を所狭しと動き回っていた。
 パンの選択に夢中になる者たちを巧く避けながら並べていくのはなかなか骨が折れる作業で。ほんの一瞬、気が逸れた時、背中に衝撃があたった。手の上にあったお盆がずれ、体勢を取り戻そうとの努力空しく、パンを乗せたまま派手な音を立てて床に落ちた。
 注目を避けるが如くしゃがみ込み、ひっくり返った盆を拾う。散らばってしまったパンを拾う手が、外岡以外にあった。それが、華保だった。
 盆にパンが帰ってくる度に、謝罪と礼を交互に口にしていた、と記憶している。周囲の注目が霧散してからも羞恥で俯くばかりで、正直細かいところまでは覚えていない。
 これで最後ですよね、と話し掛けられて、そこでまともに華保の顔を見た。手にしているラストの落下物は外岡の盆に乗せられることなく、華保は立ち上がり、疑問符を浮かべた外岡に向けられたのは無邪気な笑み。
 そのままレジに向かおうとしたので呼び止めると、「これは買います。好きなんですよね」と返ってきた。
 いくらセロファンで包装されたものでも落ちた物を売ることはできないと言うと、汚れたわけじゃないし少し形が崩れただけだから、と。それが、最初。
 それからも足を運んでいる華保を見かけることはあったが、接客に携わらず基本厨房に入りっぱなしの外岡との接点はなかった。
 数ヶ月が過ぎ、ちょうど会計を済ませて外に出る華保の姿を捉えた時があった。陳列の手を止めず、ちらちらと窺った先に、良尚がいた。その笑顔で、彼氏なのだと判った。そして、笑みを返した良尚が、華保の視線が違う方向に向いた瞬間に、周囲から自分たちへと向けられる視線に対して覗かせた表情で、第一印象が決まった。
 華保が気になる存在であったことは否定しない。が、それは恋愛とはかけ離れたものだった。同じ不自由を抱える者としての、共鳴。大学に入って、同じ目標を志す者同士仲良くなって、今はそう思う。
 幸せだと本人が感じているのなら、わざわざ言うことなどない。自分には関係のないことであるし、余計なお節介を焼くのは好きじゃない。
 なのに何故、いま外岡の足は、彼らを追っているのだろう?


[短編掲載中]